水俣の石橋


鹿児島との県境、水俣市の国道3号線沿いにある石橋を中心に紹介します。

境(さかい)橋 
 水俣市袋(3号線の県境手前を左折、JR鉄橋の先) 橋長:13.5m 橋幅:4.95 径間:11.3 拱矢:3.8
 鹿児島との県境を流れる境川に架かり、すぐ川下にはJR鹿児島本線(写真上の鉄橋)。現在では国道3号線に役目を譲り廃道となり、橋の利用者も少ないようだ。周囲も橋面も夏草に覆われ、解りにくい。境川は小さい川だが、その名の通り、藩政時代は厳重に閉ざされた国境の川で、橋はなく、西南の役後の明治16年(1883)の架橋である。100年以上経っても造りはしっかりとしており、周囲は水や緑と自然も豊か、今後の周辺整備に期待したいもの。なお、右上写真の橋柱の文字は「佐可以者(さかいは)し」と読むようだ、歴史を感じる。

 文政元年(1818)、この地を訪れた頼山陽(らいさんよう)の漢詩「過肥薩界」が、案内板に紹介してある。
 「一澗平分南北州 乱沙深草両辺秋 曽無所属唯渓水 幾股潺湲随意流」
 頼山陽は薩摩へ向かう際、薩摩の厳重な警戒により、藩境を越えることが出来ず、一晩、肥後藩内(神川)の農家に宿泊することになったという。漢詩の後半を勝手に解釈すれば、「水は元々、1本の川に流れ込むものでなく、大地の続く限り、自由気ままに幾つにも分かれて、サラサラと流れていたのだろうに。勝手に国境を作り、人々が自由に往来が出来ぬのはおかしい」とも。
 2世紀を経た現代にも通ずる詩。21世紀への警鐘ともとれる。「勝手に国境を引き、敵対するのは愚かだ、世界中で今なお続く戦争や紛争を嘆き悲しむ」詩では。西南の役という、国内最後の内戦が終わっての架橋。橋は両岸の友好と平和のシンボル、境橋架橋の意味も深いものがある。それも簡単には流されることがない石橋(石橋には永代橋の別名も)である。
前田(まえだ)橋(上原橋)
水俣市小津奈木 架橋:嘉永年間
橋長:10m 橋幅:4 径間:7 拱矢:2.5
 津奈木町から水俣市に入ってすぐ右側の小川に見えてくる小ぎれいな石橋である。地図によれば、国道を挟んだすぐ近くに瀬戸眼鏡橋(津奈木町)とあるのだが、今回は探し出せず
隈迫(くまんさこ)眼鏡橋
水俣市初野 架橋:嘉永年間 橋長:3.7m 橋幅:2.85 径間:3.35 拱矢:2.5 前田橋より1kmほど国道3号を南下、新幹線工事現場近く。移設復元工事だが、コンクリートで塗り固められ石橋は息苦しそう。復元法の再考を!マウスオンは2005/02/27撮影(後方は新幹線)
新町(しんまち)の石橋
水俣市陣内 架橋:文政8年(1825)
橋長:4.0m 橋幅:3.0 径間:3.5
 薩摩から江戸へ続く旧薩摩街道にあるが、現在は民家の中に取り残された状態、ブロック塀で閉ざされ、橋としての役目は終えている。市役所から東へ5百m程の住宅街、県道より南に10m程奥
冷水(ひやすじ)の石橋
水俣市冷水 架橋:嘉永年間
橋長:6.8m 橋幅:3.4 径間:4.8 拱矢:3.1
 水俣の中心部を過ぎ、袋のサンビレッジ水俣への旧薩摩街道に架かる。現役の石橋だが、コンクリート補強がなされ、熊本が誇るアーチ式石橋だと気付く人も少なそうだ、大型ゴミの不法投棄さえも
大迫(おおさこ)眼鏡橋
水俣市大迫 架橋:嘉永年間(1848〜?)
橋長:約3.5m 橋幅:約1.5
N 32゜13′23″E 130°25′43″14m
国道3号新水俣駅手前の信号(右横には熊迫眼鏡橋)を大迫へ2km程進んだT字路を右折して200m程にある小川の上流100m付近に。個人宅への橋
坂口(さかぐち)橋
水俣市坂口 架橋:嘉永3年(1850)
橋長:約10m 橋幅:約2.5
N 32゜11′27″E 130°23′23″39m
3号線から「はぜのき館」を目指し、はぜのき館の下方500m程のT字路右手。移築復元されているのだが、欲を言えば復元法や場所に配慮が欲しかった

写真撮影:2001/08/22(新町の石橋は 5/12)
(大迫、坂口は2004/11/22)

旧薩摩街道沿い、旧街道の案内板は目立つが、石橋の案内は少ない。
交通量も多く石橋巡りも大変、今後の環境整備に期待したい。
宝橋は、2003年の土石流で流失したとのこと。
最終更新:2005/06/01

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会
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