阿蘇市一の宮町の石橋


 阿蘇谷では唯一の眼鏡橋となってしまった「阿蘇市一の宮町の天神(てんじん)橋」を紹介します。一の宮町の坂梨小学校から国道57号線の旧道(旧豊後街道)沿いを東へ進み、仲町と下町の境界の平保木川(へぼのきがわ)に架かる石橋です。橋面はアスファルトで覆われ、コンクリートで拡幅されており、写真のように道路沿いからは解り難いが、橋下を見ればしっかりしたアーチは健在、架橋155年経った今なお現役の立派な石造眼鏡橋です。

 
天神橋(てんじんばし)

架橋:弘化4年(1847) 石工:卯助
橋長:11.5m、幅:3.8 径澗:6.1
左上写真は道路東側より
右上は天神社の境内より
左は同境内の案内板(拡大写真80kb
(撮影:2002/07/27)
  

 「ホームページ拝見しました。石橋の項で阿蘇市一の宮町坂梨にも石橋がありますので、データーに追加いただければと思いメールします。以下概要資料です。」と、福岡の高木様より、坂梨小学校百年史(昭和48年発行)の抜粋を送っていただきましたので、参考資料として紹介させていただきます。


 種山石工作る 中町の『めがね橋』(坂梨校百年史より)
 上益城郡矢部の通潤橋は、かって国定教科書にのせられたため、今日では全国的に知られた名橋であります。また皇居のお堀にかかる二重橋は、皆さん百も御承知のところです。
 しかしふるさと人のいう中町の石橋(めがね橋)は、ひよっとしたらよその者は気づかぬままに、過ぎ去ることもあるでしょう。今日では手すりの石がトラックにはねとばされ、コンクリートでついだり、はいだりの状態で、いささか尾羽うち枯らしたという感があります。交通禍はどうも人間ばかりではないようで、この橋の場合まことに惜しいことです。ところで之等三っの橋は、何れも血の通った同じ系統の作なのであります。
 三橋共にその架設は八代郡旧種山村(現東陽村)の、いわゆる「種山石工」によってなされました。しかも架設の年代は、坂梨の石橋が弘化四年(一八四七年)、通潤橋安政元年(一八五四年)、二重橋明治六年(一八七三年)の順となります。棟梁は坂梨が卯助、後の二つは丈八(後姓を賜って橋本勘五郎)でありました。中町と下町の境にかかるこの橋の、天神様に寄ったたもとの大石に「弘化四年丁未寿吉辰 八代郡横山手永 棟梁石工 卯助」と刻みこんだ人は、当時姓すらもない身分であったのです。(丈八の長兄を宇助といいます)工事は弘化二年七月には始まっていたもようです桜町の平岡善信さん方には、当時の石工栄七という人が、先祖におくつたと伝えられる仏像約百六十体の図解説明書があります。それに弘化二年の文字が記されています。完成までに足かけ三年は要したのでしょう。
 卯助の心意気はまことに見上げたものでした。架設工事が大詰めに来て、そして最後の一石を頂天にはめ込むという日、彼は紋服に威義を正し、その真下に正座したと伝えられます。(坂梨素純さんの談)
 昨年に亡くなった熊日の豊福さんには郷土関係の著が多いが、その中に「熊本名匠伝」があります。橋本勘五郎の項によれば「石の拱橋は従来の木橋とちがって、どこか一か所ちよっとでも狂いがあれば、全体が台なしになるので設計にも施工にも萬全の用意が必要であった。まず橋をかける際は厚さ二寸、巾八寸の板で橋の形のワクを作る。そしてそのワクに従ってたんねんに石をつんでゆく。最後の一石をハメ込んでワクをとり外すのたが、この時橋がペシャンコになれば万事休す、棟梁は責任をとって腹を切るのが不文律になっていた。だから棟梁は自分の力のすべてをかけて尚その上に神仏の加護を求めた。」とあります。
 私はこの四月はじめ、坂梨校の浜本先生と橋を調べてみました。川に下ると、約百個の石がみごとなアーチをかけています.下底の長さ六.四米 巾四.三米.中央部の高さ二.一米。石材は長いもので約二米、短いのは半米程度で、材質はさして堅いとは思えません。しかし架設以来百二十年を経た今日も堅牢そのもので、すでに或る風格さえ感じられます。改めて施工者卯助に畏敬の念をいだいたのでした。
 私は以前からこの橋の名称について知りたかったので、この日は下町側の角の二つの大石を調べました。倒れているので転ばしながら四面を見たのでしたが、何らの手がかりもありませんでした。あるいは最初から名称をつけなかったのかもしれないと思っています。
 私たち村人は、この立派な文化財----おそらく阿蘇谷に唯一つの石橋----を末長く見守って行きたいものであります。
  (付) 種山石工の作としては、鹿児島に磯の長堤、防皮堤、鶴丸城の一部.東京では万世橋、江戸橋、白木橋、神田橋。熊本では明五・明十の両橋。下益城に霊台橋。阿蘇では戸下橋、蓬莱橋等があります。(渡辺文吉)
 (三十九年九月広報一の宮)


 以上、昭和39年9月の「一の宮町広報誌」にも掲載されたものでしょう。このような「めがね橋」への脈々たる住民の熱い思いが、その後昭和52年の町指定重文へとつながったのでしょう。なお本文とは別に、一の宮町教育委員会(当時)からご提供いただいた「文化財一の宮」からの抜粋もあります。
 

  メールをいただき、さっそく一の宮町へ。台風11号の影響であいにくの天候でしたが、無事撮影することができました。なお、高木様のメールには「坂梨では現在有志が集い昔の宿場町の復興に取り組んでおられます。少しでも多くの人が昔の遺跡を偲び、先人の苦労を知ることはよいことだと思います。」と結んでありました。天神橋のコンクリートの覆いを取除いて、架橋当時の姿に復元できたら、復興宿場町の風景とも更にマッチするかとも思います。川底への遊歩道も欲しいですね。眼鏡橋や外輪山を背景に蛍が乱舞し、川遊びが楽しめる遊歩道になればと期待はふくらみます。しかし、架橋当時の状態に戻すとなると、道路幅など解決しなければならない問題もあるかと思いますが、天神橋周辺の景観が蘇ることを期待します。また、この旧豊後街道を外輪山へ歩けば、石畳の道をはじめ、すばらしい阿蘇の景観や自然を満喫できます。(2002/07/29)

旧街道地図
宿場町案内板:2005/05/16 最終更新:2005/05/29
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

 
緑川1 荒尾 山鹿 菊陽 白水 中央 砥用 宇土 人吉 水俣 大分
他の1 南関 菊池 大津 一の宮 445 甲佐 松橋 東陽 田浦 天草 長崎
最古橋 鹿北 菊鹿 植木 小国 矢部 豊野 小川 八代 芦北 円通寺 山形
熊本 三加和 玉名 長陽 産山 御船 宮原 三角 坂本 津奈木 福岡 海外

肥後の石橋へ  いろいろな石橋紹介 「文化財一の宮」からの抜粋へ