大字坂梨字仲町の南北に流れる平保木川(へぼのきがわ)にかけられている橋で、今まで名称がつけられていなかったらしく誰も知らない。そこで昭和52年町の文化財に指定するとき、すぐそばの天神社にちなんで天神橋と名づけた。
橋の下底の長さ6.4メートル、巾4.3メートル、アーチの中央部の高さ2.1メートル、約100個の石が見事な弧(アーチ)をえがいている。石材は、長いもので約2メートル、短いもので0.5メートルで、材質は滝室坂産の阿蘇溶岩である。
橋のたもとに、「弘化四年丁未(ひのとひつじ)吉辰(1847) 八代郡種山手永(現東陽村) 棟梁 石工卯助」
宇助(卯助)は長男で、弟に宇市、丈八(橋本勘五郎)がいる。宇助の最大の事業は、緑川に架けられた下益城郡砥用町清水の霊台橋(国指定重要文化財)である。石工棟梁種山の宇助ら総勢72人で行われたとある。この霊台橋が完成の日彼はもう坂梨に向けて出立していたという。弟丈八は矢部の通潤橋をかけた時の業績が認められて、橋本の姓を賜り注、名も勘五郎と改めた。明治4年に新政府に招かれ、都内に皇居二重橋などをなどをかけた。
天神橋の工事は、弘化2年(1845)7月に始まっていたようである。そして弘化4年(1847)まで、あしかけ3年を要している。地元の言い伝えとして「卯助の心意気は、まことに見上げたものだった。架設工事が大詰めにきて、最後の一石を頂天にはめこむという日。彼は紋服に威儀を正し、その真下に正座した。」といわれている。
熊本「名匠伝」の橋本勘五郎の項に、次のように書かれている。
「石の橋は従来の木橋とちがって、どこか一ヶ所ちょっとでも狂いがあれば、全体が台なしになるので,設計にも施工にも万全の用意が必要であった。まず橋をかける際は厚さ二寸(約6.06センチメートル)、巾八寸(約24.24センチメートル)の板で、橋の形のワクに従って、たんねんに石をつんでゆく。最後の一石をハメこんでワクをとり外すが、この時橋がペチャンコになれば万事休す。棟梁は責任をとって腹を切るのが不文律になっていた。だから棟梁は自分の力のすべてをかけて、尚その上に神仏の加護を求めた。」とある。
◎後年の宇助について、
宇助の兄弟の通潤橋工事による収入は莫大なもので、銭をももひきに詰めて帰郷したと伝えられる。その後の宇助は石工をやめ、近くの早瀬で造り酒屋を営んだということである。しかし、仕事に不慣れで商売にならない。そこで干拓間もない網道(現竜北町)に広い土地を買い、父嘉八とともに移住し、地主として大規模な農業を経営したと伝えられる。
宇助は後に橋本仙蔵と名を改め、今、東網道のはずれに、「橋本仙蔵夫婦墓」が、橋本姓の多くの墓の中にある。
|