山形の石橋を研究されている市村幸夫様より、「綱取橋」の写真と著作「山形の石橋」を送っていただきましたので、それをもとに綱取橋を中心に紹介させていただきます。
綱取橋(山形県西置賜郡小国町) 明治14年10月着工、同16年に完成 橋長:27.3m 橋幅:4.55m スパン:16.36m 拱矢:8.2m 設計:奥野忠蔵 石工:山形市 片岡孫兵衛、宮内町村 吉田善之助 |
山形県内の石橋に関する情報は少ないが、この綱取橋については、「小国町史」「小国交通」にほぼその全容が記されている。
新潟県に通ずる小国新道は明治13年6月、宇津峠から着工し、6年の歳月をかけ明治19年に完成している。小国新道は難所と云われた束根の松に架けた綱取橋は、明治14年10月着工し、2年の月日を費やし同16年に完成している。
宇津峠の工事はなかなかの難工事であったが、最も困難を極めた所は沼沢と箱の口間であった。この区間は横川に沿って道路が西にのび、さらに右岸について進んで東松に至り、そこから綱木山に渡るところに石橋(綱取橋)を架け、その半腹に沿って箱の口に至るまでの1里34町余、その間先仞の懸岩、横川の流れをはさむ幽玄境である。
石工の山形市片岡孫兵衛、宮内町村吉田善之助らによって工事がすすめられた。
工費は1012円15銭7厘で、橋長27.3m、幅4.55m、高欄高60cm、水底岩盤にて根石はない。スパン16.36m、拱矢は8.2m。
綱取橋工事は明治14年10月仮橋架橋工事にとりかかったが、束根松の難所のため4人の犠牲者もでた。このような困難を乗り越え明治17年甲申10月23日(旧9月五日)小国小学校において、小国新道落成開道式を挙行することとなった。当日「新道開盤ニ付テ尽力候段奇特ニ付賞与」として40名が、横川少書記官より賞与されている。
そのなかに
扇子 片岡孫兵衛、吉田善之助
扇子 奥野忠蔵
とあり、設計は吉田橋と同様、薩摩出身の奥野忠蔵であることが判っている。
小国片洞門は眼鏡橋を含め、遊歩道として保存されているが、岩石落石防止の策がない。眼鏡橋は生い茂る草や蔦と共に、静寂としたなか眼下に渓流を従えている。現存する石橋の中では、名橋と思われるが、町文化財としての指定はされていない。
なお、「山形の石橋」によると、山形県内には明治時代初期までに架けられた次の13の石橋が現存している。
橋名 | 所在地 | 架橋年代 |
堅磐橋 | 上山市川口 | 明治11年 |
中山橋 | 上山市中山 | 明治11年 |
幸橋 | 高畠町幸町 | 明治12年 |
太鼓橋 | 山形市鉄砲町 | 明治12年 光禅寺境内 |
新橋 | 上山市楢下 | 明治13年 |
吉田橋 | 南陽市小岩沢 | 明治13年 |
蛇ヵ橋 | 南陽市小岩沢 | 明治14年 |
綱取橋 | 小国町綱木 | 明治14年 |
硯橋 | 上山市楢下 | 明治15年 |
舞鶴橋 | 米沢市丸の内 | 明治15年 |
多嘉橋 | 天童市本町 | 明治20年 明治村移築 |
幾代橋 | 村山市岩野 | 明治22年 |
康寿橋 | 南陽市赤湯 | 明治末期か年代不詳 |
その外に、現在までに流失・撤去された明治初期までの石橋が8橋(米沢市の瀧ノ岩、瀧ノ小、山形市の常磐、高畠町の九十九、村山市の土生田、真室川町の萬代、鶴岡市の大泉、酒田市の新井田の各橋)あった。
山形の石橋の発案は初代山形県令「三島通庸(みちつね)」である。三島通庸の出身地である薩摩の島津藩が、肥後の石工に懇願し、多くの石橋を作っている。山形の石橋は、肥後・薩摩と無縁ではない。技術を持たない山形に故郷薩摩より呼び寄せた、「奥野忠蔵」等の技術が石橋架橋の礎となっているものと考える。石工の技術面を考えると、城石垣の建築技法が、石橋架橋以前に確立されており、その技法がその後の石橋技術に大きな進歩を与えたことは明確である。山形城の石垣は、山形旅篭町の石工、信濃屋片岡仁兵衛により、寛政6年に北不明門を修築した記録があり、山形石工が石橋を作る技量と素地はあったものと推測される。なお、山形県土木技官となった奥野忠蔵が設計したと特定できるのは、瀧ノ岩、瀧ノ小、吉田、綱取、常磐の5橋だが、記録としては残っていないものの、他の石橋についても、何らかの形で奥野忠蔵が関与しているのではないかと考える。(以上、平成11年12月6日にお送りいただいた市村様の「山形の石橋」より抜粋)
ところで、三島通庸は山形の後、福島、栃木の県令ともなるのだが、その評価は大きく分かれます。「道路県令、土木県令」と評価される反面、「全県民に無償労役と重税を課し、有無を言わさぬ道路建設で福島県の経済は完全に破綻。私益のための道路建設。栃木県史最悪の指導者」などとも。しかし、鹿児島の石橋架橋技術を山形・福島・栃木へ伝えた功績は評価できます。肥後から薩摩へ、薩摩から山形へと、架橋技術の繋がりがあったのです。肥後の石工が山形までは行った記録はないが、その技術は脈々と伝わっています。藤原林七、岩永三五郎らの技が東北の地に花開き、一世紀以上経た現在でも、その石橋が残っていることを喜びたいものです。
「残っている石橋も、周辺環境が充分とは言えず、片隅に追いやられた格好になっているものも。石橋は生きているのに、石工たちは泣いている。石工の心を見直して、暮らしの中に温もりと潤いを与えてくれる石橋に蘇って欲しいものである。」と市村さんは訴えておられます。全国の石橋についても言えることだと思います。なお、本ページで紹介させていただいたのは「山形の石橋」の一部であることをお断りしておきます。
なお、別ページとして、市村様が山形県文化財保護協会で研究発表された資料 「眼鏡橋流出の記録 ―常磐橋と萬代橋―」 があります。掲載を快くご承諾いただいた市村様に深く感謝申し上げます。
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