熊本「最古の石橋」と石工「仁平」

 熊本県内には、緑川流域以外にも、たくさん(340基以上)のアーチ式石橋が残っています。熊本に残っている石橋の中で最も古い石橋とその石工「仁平」を紹介します。


日渡洞口橋(ひわたし とうぐうきょう)

 所在地:菊鹿町日渡 石工:仁平
 橋長:6.0m 幅:0.58m 径間:5.2m
 安永3年(1774)、前川(太田川)に架けられた輪石1列のリブアーチ式石橋。
 平成4年6月大雨で流された為、平成6年、日渡地区の人々の手で、すぐ近くに復元保存。
 現在のコンクリート作りの「新しい洞口橋」の下に残っている元々の洞口橋の輪石の一部が左右両岸に残っている。(左の写真は右岸)
 阿蘇郡長陽村の黒川眼鏡橋を架けるために、試作的な意味で造られたといわれている。
 近所の方の話によると、幅60cm足らずのこの橋を、馬をひいて渡っていたとのこと。


石工 「仁平(にへい)」

 加藤清正が熊本城を築城した時、連れてきた近江(滋賀県)石工の子孫で、長崎で石橋の技術を習得し、帰郷後、黒川の眼鏡橋や門前川橋(御船町)などを造ったといわれており、熊本で最も古いアーチ石橋技術者であろう。
 「肥後の石工」のルーツは、熊本城ともつながっているのだ。熊本城の石垣は、「武者返し」という特殊な石垣で、まさにアーチ石を横にしたようなものだから、この説は妙に納得できる。 (種山石工も、アーチの工法を、お寺の屋根の曲線(寺勾配)の工法を参考にしたそうで、肥後の石工のアーチ工法が単なるポルトガルや中国の物まねでなく、独自の工夫やアイデアを加味したもので、まさに日本独特の工法であることが解る)
 仁平は、石橋の他に、六地蔵や鳥居、仁王像などの秀作を残している。
 肥後の石工の中で、最初に活躍した石工集団「仁平グループ」のリーダーである。植木町に残る豊岡橋(享和2年、1802年)を架けた理左衛門も同グループである。中国式のアーチ石橋と言われる「リブアーチ」にその特徴を残している。
 

 石工仁平、益城郡上嶋村の石工三九郎が男也。親共に下内田村大塚に在し、庄屋喜兵衛が名子たり。或日仁平肥前に赴き、石虹の法を伝習し、太田川の流れに一虹を架し試む。某橋大塚の前に今猶存す。幅二尺に未たず小虹也。然して天明二年(1782)阿蘇郡黒川の虹を架す。是当国石虹の始にして、今所々に架するは仁平を以って祖とす。(以上、山鹿郡史より)
 墓は菊鹿公民館(山鹿市菊鹿町下内田)北側にある100基ほどの中で最も立派なもので、寛政2年(1790)12月5日53歳死亡と記されている。更に「石工仁平」と刻まれているそうで、石工一族の誇りと敬愛の気持ちを感じることができる。

 仁平グループの後に活躍する石工が、岩永三五郎や橋本勘五郎など藤原林七を祖とする「種山の石工(三五郎は正確には野津の石工)」である。「肥後の石工」といえば、「種山石工」の存在が有名であるが、県北・県南・天草など、県内各地で活躍、アーチ石橋を架橋してきた数多くの石工たちがいたのである。石匠館の上塚館長の話では「現在までに130名以上の石工が確認されている」とのこと。



黒川眼鏡橋(くろかわ めがねばし)
(左の写真は、流失後架けられた現在のコンクリート製の橋)

 天明2年(1782)架橋の眼鏡橋(橋場橋とも)は、昭和28年(1953)6月の「6.26水害」で崩壊。現在では、そのやや下流に、輪石だけが残っている(一部が役場敷地内に保管されている)とのこと。また、下流の戸下の旧道には明治33年架橋のアーチ石橋黒川橋もある。
リブアーチ式石橋とは
 輪石(アーチ石)を縦方向(橋の渡る方向、川の流れと垂直方向)に並べる工法、中国式石橋の特徴(中国式にもリブアーチでないものも多い)でもある。中国の影響が強い沖縄や長崎の古い石橋に多い工法で、熊本のアーチ石橋では仁平グループの石橋に多い。
 

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


緑川1 緑川2 緑川3 他の1 植木 植木 菊陽 山鹿 白水 中央
東陽 天草 荒尾 菊池 豊野 田浦 大津 鹿北 砥用 甲佐

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