「肥後の石工」の軌跡(年表)

 「肥後の石工」といっても、県内各地に様々な系統があり、調査が進むに従い、数多くの石工の存在が判明してきました。本ページでは、その中から、加藤清正の熊本城築城に関わった「近江の石工」をルーツとする「仁平石工」グループと、長崎奉行所の武士「藤原林七」を祖とする「種山石工」グループの2つの大きな石工集団に絞って、石匠館のパンフレット等を参考に紹介します。

 仁平石工グループは、長崎の石橋を参考とした中国式(リブアーチやくさび利用に特徴)の石橋を、主に県北を中心に1700年代後半から1800年代初期にかけて架設しています。一方、種山石工グループは、1800年代初めから、八代市東陽町種山地区(旧種山村)を拠点として、通潤橋をはじめとするアーチ式石橋を日本全国に造り続けていった土木技術集団で、開祖「林七」以来の独自の技術工法による熊本(日本)式の石橋を手がけています。



「仁平石工グループ」
1601(慶長6) 加藤清正、熊本城築城のため、近江の国(滋賀県)より石工を呼び寄せる。
1607(慶長12) 熊本城完成。その後、石工たちを益城郡上島村(現嘉島町上島)に住まわせる。
1634(寛永13) 長崎中島川に眼鏡橋完成。
その後、上島村の石工「三九郎」の息子「仁平」が長崎に行き、石橋工法を学び帰る。「仁平」石工の誕生である。
1774(安永3) 「仁平」、山鹿市菊鹿町に熊本最初のアーチ石橋「洞口(とうぐう)橋」を架ける。
1782(天明2) 「仁平」、南阿蘇村(旧長陽村)に「黒川眼鏡橋」を架ける。
1802(享和2) 仁平グループの石工「理左衛門」、植木町に豊岡橋を架ける。
1808(文化5) 仁平グループ(?)、御船町に「門前川橋」を架ける。

 

「種山石工グループ」
1765(明和2)頃 種山石工の開祖といわれる、藤原林七が生まれる。
1782(天明2) この頃、長崎奉行所の下級武士だった林七、アーチ石橋に興味を抱きオランダ人に接触。
1787(天明7) この頃、林七は長崎から種山村に逃亡(種子山と改姓)し、農業のかたわら、石工の技術を習得する。
1793(寛政5) 野津石工「宇七」の次男として、三五郎が生まれる。
1805(文化年間) この頃、林七が鍛治屋谷に上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋を架けたと伝えられる。
1817(文化14) 三五郎、8月より下益城郡砥用(現美里町)に水道橋「雄亀滝橋」を着工する。
1821(文政4) 七百丁新地の大干拓が種山組、野津組を中心に行われ、三五郎、石工共総引廻し役となる。この功績により「岩永三五郎」と名乗る。
1822(文政5) 石工嘉八の三男として丈八(橋本勘五郎)が生まれる。
1827(文政10) 茂吉・備前石工勘五郎、砥用(現美里町)に「馬門橋」架ける。
1832−1839
(天保3−10)
三五郎、矢部(現山都町)に「聖橋」を架ける。
1839(天保10年) 嘉八の次男「宇市」、両親と矢部(現山都町)の小野尻に転居。
1845〜1849
(弘化2年〜嘉永2年)
岩永三五郎、鹿児島の甲突川に「西田橋など五大石橋」を架ける。
1847(弘化4) 宇助・丈八兄弟ら72人の石工、「霊台橋」を架ける。
1848(嘉永元年) 宇助・宇市・丈八の3兄弟が中心となり、「御船川目鑑橋」を架ける。
1849(嘉永2) 新助・久左エ門、砥用町(現美里町)「大窪橋」を架ける。
1850(嘉永3) 宇市、矢部町(現山都町)「金内橋」架ける。
1851(嘉永4) 三五郎、59才で死去。
1854(安政元) 宇市が棟梁となり、丈八・甚平らにより「通潤橋」を架ける。
1855(安政2) 甚平・丈八、御船の「八勢橋」を架ける。
1859年(安政6年) 丈八の次男弥熊が生まれる。
1860(万延元年) 宇市が棟梁となり、菊池に「立門橋」を架ける。
1870(明治3) この頃、丈八、「勘五郎」と改名する。
1873〜1874
(明治6〜7)
橋本勘五郎、明治政府に呼ばれて東京に万世橋などを架ける。
1875(明治8) 勘五郎、熊本市に「明八橋」を架ける。
1877(明治10) 勘五郎、熊本市に「明十橋」を架ける。
1886(明治19) 勘五郎・弥熊父子、御船町に「下鶴橋」を架ける。
1889(明治22) 遠坂岩吉・畑中尉助、産山に湊橋を架ける。
1893(明治26) 勘五郎・弥熊父子、福岡県上陽町に「洗玉橋」を架ける。
1896(明治29) 畑中尉助、宇城市小川町海東に吐合橋を架ける。
1897(明治30) 橋本勘五郎、7月17日に76才で死去。
1955(昭和30) 種山村と河俣村が合併、東陽村が発足。
2005(平成17) 東陽村が八代市と合併、八代市東陽町に。

(以上、石匠館パンフレット等を参考に)

 仁平グループは1700年代後半、種山グループは1800年代と活躍した時期や工法も異なる点がありますが、同じ熊本の石工集団です、2つのグループの間に、何らか接点(技術移転等)があったのではないか?」とも考えられます。2グループの直接的な交流はなくても、橋渡しの別グループの存在とか、仁平グループの石橋を種山グループが知ることもあったとしてもおかしくはない。御船町の「門前川橋」は種山からも近く、そばに御船川眼鑑橋を架けたのですから、その存在を知らなかったはずはないでしょう。研究課題でしょうか。史料・文献等をご存知の方は、お教えいただければ幸いです。

 別ページとして、肥後の石工の家系図漫画で見る種山の石工も。また、熊本のめがね橋の変遷を3つの時代と3人の石工に焦点を当て、簡潔にまとめられた石橋研究家「浦田勝美」さんの講演資料「肥後の石造アーチ橋・変遷略史」も。

最終更新:2009/03/05

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


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