江戸末期から明治中期までの約70年の間に突然出現し、日本国中にアーチ式の石橋を作り続け、そして、突然消えていった、ハイテク集団がいました。その集団は「肥後の石工」または「種山石工」と呼ばれ、現在の熊本県八代市東陽町(旧種山村)を本拠としていました。
その集団の祖となる人物が「藤原林七」です。長崎奉行所から追われ、旧種山村に身を隠した彼は、「藤原」の姓を捨て、「種子山」を名のります。彼をはじめとし、彼の後継者たちが「肥後の石工」として、数々の石橋を今に残しております。その家系図を以下に示します。
以下に示す家系図は、以前紹介していたのものとは異なります。このページを閲覧された「迯目英正」様より提供いただいた資料で新たに作成したものです。大きな違いは「三五郎」が「林七」の次男ではなく、林七が石工の技術を学ぶために弟子入りした北種山の石工「宇七」の次男だということです。この点に関しては石匠館の古田清秀館長(当時)も同意見で、近年の定説のようです。(H10.3.17)
今後、以下の各石工たちの業績等も詳しく調べ、充実をはかりたいと考えております。
三五郎の妻「三与」は林七の娘、三五郎は林七の娘婿
肥後の石工には、上記の「種山の石工」に対し、それより前に活躍した「仁平グループ」がいます。(「肥後の石工軌跡」参照)「仁平グループ」とは、加藤清正が熊本城を着工するとき、近江国(現在の滋賀県)の滋賀郡坂本村の「穴太石工」衆を呼び寄せたのが始まりで、熊本城完成後も益城郡上島村(現在の上益城郡嘉島町上島)に住まわせ、その後の堤防工事や干拓工事などに腕を振るっていた石工たちの子孫です。菊鹿町の洞口橋(安永3年)や昭和28年に流出した長陽村の黒川眼鏡橋(天明2年)などを造った仁平や、植木町の豊岡橋(享和2年)を造った理佐衛門などの石工たちがいます。
これまで、石工たちの存在があまり解らなかったのは、建設主としての庄屋や豪商や役人の名前はあるものの、技術者である石工たちの名前は正式な記録に残っていないことが多いからです。熊本城を造ったのも加藤清正であり、実際に建設に従事した大工や石工さんたちは記録に残らないのです.。石橋の研究が進むにつれ、アーチ石橋を造った「石工」は「仁平グループ」と「種山グループ」以外にも、県北・県南・天草などで活躍した数多くの石工たちの存在が浮かび上がっています。
活躍時期が違う「仁平グループ」と「種山グループ」に技術交流の接点があったのか、その他の石工たちへの技術移転はどうだったのか、これらも興味深い問題です。今後の研究に期待します。技術立国日本、当時に先端技術者たちにもっと光を当てることも大切だと思います。
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