江戸末期から明治中期までの約70年の間に、突然出現し、地元熊本だけにとどまらず、鹿児島(高麗橋や西田橋、新上橋など)など九州各地や、東京(旧二重橋や日本橋、神田橋、万世橋など)など、至るところに、見事な石橋を作り続け、そしていつの間にか消えていった石工たちがいました。彼らこそ、アーチ式石橋を作る技術をもった当時のハイテク・プロジェクト集団「肥後の石工」です。その集団は「種山石工」とも呼ばれ、現在の熊本県八代郡東陽村(旧種山村)を本拠としていました。
その技術集団の祖となる人物が「藤原林七」です。彼は長崎奉行所に勤めていた下級武士でした。長崎市内の中島川に架かる「眼鏡橋」に興味をもち、「どうして石が落ちないのか?」不思議なアーチの秘密やアーチの計算に必要な円周率を知るために外国人と接触。しかし、当時の鎖国政策により、外国人との接触は禁じられていました。そのために奉行所に追われることとなり、ここ種山村に逃げ込むこととなります。逃亡の身であるため、しばらくはひっそりと農業をして暮らしていましたが、密かにアーチ技術の研究を続け、宮大工の「曲がり尺(曲尺:かねじゃく)」などをヒントに「林七流アーチ論」を完成させ、近くの小川に小さな石橋をつくります。その後、彼の弟子や息子達に知識と技術のすべてを伝授していきます。弟子や息子たちは、その技術を更に高め、熊本県内に次々と石橋を架設していきます。彼らの名声は次第に県外にも伝わり、全国各地からの架設工事要請に応えていき、「肥後の石工」の名を広めていくことになります。
中でも、林七の直弟子「三五郎」(三五郎は林七の次男という説もあったが、林七が石工の技術を学ぶために弟子入りした北種山の石工「宇七」の次男というのが正しい)は、土木事業全般に優れた技術を持ち、その技術は神業とまでいわれ、石橋架設や干拓工事の功績により、「岩永」の姓がおくられます。薩摩藩の要請により、鹿児島でも1840年から9年間の間に西田橋をはじめとする36基の眼鏡橋を造りました。
また、もう一人の種山石工を代表する名工が、「橋本勘五郎(丈八)」です。丈八は林七の長男嘉八の三男で、石橋文化のピーク時に活躍します。歴史的にも有名な矢部の通潤橋を竣工した後、明治政府の要請により、皇居の旧二重橋や日本橋など次々に手がけ、「肥後の石工」の名声を全国にとどろかせました。
肥後の石工集団は、高度な石組みの技術を用い各地に眼鏡橋を造り上げていき、またその技術は石橋のほかにも、河川工事や干拓などの事業にも活用され、社会基盤の整備等、人々の生活向上にも大いに貢献しています。
石工達のふるさと東陽村にも22基、山を越えた緑川流域にも80基の石橋(県内で320基)が残っています。一世紀以上の風雪に耐え、あるものは華麗に、あるものは重厚に、石の文化を語り続けています。石橋を前にすると、当時の名工たちの槌音が聞こえてきそうです。
種山石工が活躍した、東陽村、豊野村、中央町、砥用町、矢部町、御船町、甲佐町などは、もともと山付きの地で、平野は少なく、山ひだは深い谷でした。そこに水を引き、水田を拓き、耕作が出来るようににするには、小さな石材で大きな間隔が渡せ、なおかつ車や人、馬や牛も通ることができ、さらに水路さえ作れる、アーチ式石橋の出現は画期的なものでした。
しかし、それほどの経済力があるとは思えない一地方での「資金」や「人手」、「道具」の調達など、数多くの問題もあったはず。また、足場など工事上の「安全性」の問題などもありました。現在と比べられないような劣悪な工事環境。架橋工事の過程では、多数の犠牲者も出ています。
優れた技術を持った石工の存在とともに、惣庄屋(そうじょうや)が私財を投げ売ってまで推進した熱意、不屈の精神を持った農民達の汗と血も忘れてはなりません。この三身一体の力の結晶が熊本の石橋です。以上のような理由で、肥後の石橋は、架橋にたずさわった人々の魂が宿った、地域のシンボルであり、郷土熊本の誇るべき文化的・歴史的記念碑でもある、と言えるのではないでしょうか。
肥後の石工の家系図や年表のページが、また、熊本のめがね橋の変遷を3つの時代と3人の石工に焦点を当て、コンパクトにまとめた浦田さんの講演資料もあります。
肥後の石工の系統はこの他にも、県北や天草などで活躍した石工たちの存在が浮かび上がっております。林七より以前に、熊本で最初にアーチ石橋を手がけた石工が仁平です。彼のルーツは熊本城築城に際して、加藤清正が呼び寄せた近江の「穴太(あのう)石工」です。日本のお城の本格的な石垣は、織田信長が築いた安土城と言われ、その石垣造りを担当したのが、現在の滋賀県大津市坂本町の穴太(あのう)に住んでいた石工たちです。 石橋を造るには石工たちのほかに、支保工や足場を造る大工の存在も重要です。今後、彼らを含めて石橋技術を総合的に調査する必要があります。石橋については公的な資料も少なく、特に石工や大工等、技術者に関する資料が残っていないようです。歴史的・工学的な専門的な研究調査も最近始まったばかりとも聞いています。今後の調査研究に期待しています。 ところで、円周率の知識がアーチ造りの秘伝みたいに記述されている場合もありますが、アーチ円を造るのに円周率が不可欠とは思えません。ひもと棒をコンパス代わりに使えば、円周率を知らなくても、円は簡単に描けるのですから。アーチ技術を、円周率という不思議な数(3.141592653589793238462643383279・・・・・と無限に続くばかりか、次にどんな数が続くのか予測することができない)の魅力と結びつけたのでしょうか。 |
< 解説 > |
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