漢詩「過肥薩界」の意図するものは?

水俣境川にて、頼山陽(らいさんよう)の漢詩「過肥薩界」と出会って

 文政元年(1818)の秋、水俣を訪れた頼山陽の漢詩「過肥薩界(肥薩界を過ぐ)」が、鹿児島と熊本との県境を流れる境川に架かる石造眼鏡橋「境橋(下にも写真が)」の案内板に紹介してありました。

一澗平分南北州 一澗(いっかん)平分(へいぶん)す南北の州
乱沙深草両辺秋 乱沙(らんさ)深草(しんそう)両辺(りょうへん)の秋
曽無所属唯渓水 曽(かつ)て属する所なし唯(ただ)渓水(けいすい)にのみ
幾股潺湲随意流 幾股(いくこ)潺湲(せんかん)意に随(したご)うて流る

意味を解釈すれば、次のようなものでしょうか。
一つの谷によって肥後と薩摩の州(くに)が分かれている。
その谷の乱れた水際や深々と茂った草(木)が秋を感じさせる。
ところで、昔はただこの谷川にだけ水が流れ込むものではなかった。
いくつもに分かれて、サラサラと勝手に流れていたのだろうに。
以上、本校の馬場守一先生にアドバイスいただきました。

 頼山陽は肥後から薩摩へ向かう時、薩摩の厳重な警戒によって、その日のうちには藩境を越えることが出来ず、一晩、肥後藩内(神之川)の農家に宿泊することになったとのこと。そこで、この漢詩の後半部分を勝手に解釈すれば「水は元々、1本の谷川にだけに流れ込むのではなく、大地の続く限り自由気ままに、幾つにも分かれてサラサラと流れていたんだ。そんな大地に勝手に人間が国境を引いてしまい、人々が自由に往来が出来ないのは不合理だ!」とも。

 詩作から、2世紀を経た現代にも通ずる漢詩ではないでしょうか。21世紀の我々への警鐘。「人間が勝手に国境引き、互いに敵対するのは愚かなことだ、今なお続く戦争や紛争を嘆き悲しむ・・・」漢詩とも受け取れます。
 江戸時代には、藩境である境川に橋はありませんでした。肥後と薩摩の国境のため、橋は架けることはできなかったのです。境橋は明治16年(1883)、西南の役という、国内最後の内戦終了後に架けられたものです。まさに橋は両岸の友好のシンボル、境橋架橋の意味も重要です。橋が架けられ、自由に行き来できる平和な時代に感謝しなければなりません。

頼 山陽(らい さんよう)安永9年(1780)〜天保3年(1832)
 頼山陽は安永9年、広島藩士で朱子学者の頼春水(しゅんすい)の長男として、大阪の江戸堀に生れ、後、安芸(あき、広島)に移り住む。江戸後期の漢学者、儒学者、歴史学者。本名は襄(のぼる)、字は子成、通称 は久太郎、別号に三十六峰外史。
 寛政9年(1797)には江戸へ1年間遊学、尾藤二洲に師事し、朱子学・国学を学ぶ。寛政12年(1800年)には広島藩を脱藩して京都に行くが連れ戻されて幽閉さる。幽閉された5年間、山陽は著述に専念。その後、京都に塾を開き、梁川星巌、大塩平八郎らと交流。尊王思想の影響を受け「日本外史」を著し、松平定信に献ず。他の主な著書として、「日本政記」、「日本楽府(がふ)」等があり、明治維新の思想に大きな影響を与え、天保3年、53歳で没す。

 「肥後の石橋」の取材で水俣を訪れ、偶然に1篇の漢詩と出会い、平和の意味を考えることになりました。作者の意図や考えを勝手に解釈することは邪道かとも思いますが、これも詩の味わい方の1つかと、お許しください。漢詩に対する知識もなく、間違っている部分もあるかとも思います。お気づきの点等、ご指導いただければ幸いです。(2001/09/07)

最終更新:2004/03/01

平和を考えるへ 前のページへ