アーチ式石橋で交流があった徳島の吉田様より「どい津眼鏡橋」の写真を、本県の西様より「どい津橋」の写真を送っていただきましたので、ここに紹介させていただきます。
鳴門市のドイツ橋は第一次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となったドイツ兵たちによって造られたものです。徳島県鳴門市の板東俘虜収容所で、約1000名のドイツ兵が1917年から3年間過します。収容されていたドイツ兵が帰国を前に記念として造った2基のアーチ式石橋は、頑丈かつ重厚な仕上がりとなっています。さすがにマイスター(Meister)の国の人々が造った石橋だと感心するばかりです。いつか「肥後の石橋」との違いなども調べてみたいものです。
「どい津眼鏡橋」 この橋がリハーサルとして最初に造られ、その後造られたのが「どい津橋」です。送っていただいた写真を縮小して紹介します。元の写真はここをクリック! |
「どい津橋」 本ページを閲覧いただいた西様より、下の案内板の写真とともに送っていただきました。撮影は西様の同級生湯浅様です。元の写真はこちら。(2003/2/23) |
ドイツ橋は悲惨な戦争の歴史が刻まれている石橋ですが、現在では平和や日独友好のシンボルとして、大切に保存されている石橋で、まさに日独友好の架け橋となっています。
近くには、捕虜となってもドイツ人としての誇りを忘れず、自ら進んで残していった文化や技術の数々を写真や模型等で紹介している「ドイツ館」があります。
捕虜収容所のドイツ兵たちは、なぜ石橋をプレゼントしたのでしょうか。自分たちが収容されていた記念を残したかったのでしょうか。それもあるかも知れませんが、収容所長の寛容な措置への感謝の気持ちの表現でもあるそうです。捕虜の身であっても、付近の川で泳いだり、町に出かけることが許されるなど、比較的自由な生活ができたそうです。日本で初めてベートーベンの第九交響曲が演奏されたのもこの収容所とのことです。収容所ではバザーや運動会なども催され、ドイツ兵から酪農・園芸・建築・音楽などの技術や文化が伝えられるなど、捕虜と住民との間に交流も生まれています。
ちなみに、収容所の所長松江豊壽大佐は会津若松出身。会津藩は明治維新の戊辰戦争で負け、戦争に負けた人々の気持ちが痛いほど分っていたのでしょう。松枝所長の捕虜に対する温情的処遇の背景かと思われます。ドイツ兵は、彼の暖かい処遇に対する感謝の気持ちとして、石造眼鏡橋を架けたと伝えられています。工兵将校の指揮のもと、ドイツ兵全員で近くの坂東川から石を運んでいます。
考えさせられたことがありました。第二次世界大戦後、高度経済成長を遂げてきた日本でしたが、バブル期を頂点として、世界経済の覇者というおごりはなかったのでしょうか。最近でも一部の政治家や官僚、企業の事件などが後を絶ちません。本校の別ページ「小泉八雲の極東の将来」を思い出します。今こそ八雲が語る日本古来の美徳精神を思い出し、その実践に努めなければならないのではとも!
最終更新:2004/07/06
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会
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