この「熊本文学散歩」の情報を一つの年表に整理しています。様々な情報を一堂に集めれば、何かが見えてくるかも知れません。今後も、新たな情報を集め、より充実した年表にして参りたいと思っています。
和暦 | 西暦 | 月日 | 内 容 |
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天慶4年頃 〜 寛和年間頃 |
941頃 〜 986頃 |
桧垣の媼、藤原純友の乱の後、肥後白川のほとり、蓮台寺付近に庵を構え、金峰山麓にある岩戸観音を信仰(後には岩戸観音近くに庵を構えたとも?) | |
寛文8年 | 1668 | 井沢蟠龍(長秀、1668〜1731)生まれる | |
享保5年 | 1720 | 井沢蟠龍子、廣益俗説辧著す(享保5〜文化9) | |
文政元年 | 1818 | 8月23日 | 頼山陽(1780〜1832)39歳の時、天草の乱の跡を慕って天草を旅する。長崎の茂木港より乗船するが、海が荒れ、島原半島の千々岩に漂着しながらも、大矢野島を経由しての、苦労の末での富岡上陸。漢詩「泊天草洋」 |
9月7・8日 | 水俣を訪れた頼山陽の漢詩「過肥薩界」が、鹿児島と熊本との県境「境川」に架かる石造眼鏡橋「境橋」の案内板に紹介してある | ||
文久3年 | 1863 | 1月25日 | 徳富蘇峰(1863〜1957)上益城郡杉堂村(益城町)の母の実家で生まれる。その後、熊本洋学校から同志社に学ぶ |
明治元年 | 1868 | 10月25日 | 徳富蘆花(1868〜1927)、水俣市浜で生まれる。その後、同志社に学び熊本英学校で教鞭を執った後上京 |
明治9年 | 1876 | 10月 | 徳富蘆花は神風連の乱勃発時、大江の家の2階の雨戸から恐る恐る炎上する町並みを目撃したそうです。「恐ろしき一夜」はその様子を記した作品 |
明治15年 | 1882 | 徳富蘇峰(20歳)、大江義塾を開き、その後出版した「将来之日本」が出世作となり上京(明治19年) | |
明治17年 | 1884 | 5月14日 | 宗不旱(本名 耕一郎 1884〜1942)、熊本市上通町に生まれる |
明治20年 | 1887 | 6月4日 | 第五高等中学校、入学式及び授業開始(開校式は明治23年10月10日) |
明治24年 | 1891 | 11月19日 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲 1805〜1904)第五高等中学校(明治27年、第五高等学校と改称)の英語教師として、島根の松江中学校から赴任。25日、手取本町34番地に家を借りる |
明治25年 | 1892 | 11月 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、坪井西堀端町35(坪井1丁目9-8)に転居(筋向いの教会の鐘の音から逃れるため) |
明治26年 | 1893 | 11月17日 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に長男一雄誕生 |
明治27年 | 1894 | 1月18日 | 高群逸枝、下益城郡松橋町南豊崎で生まれる。紡績工場の女工や小学校の代用教員、新聞記者などを経て、大正9年上京。(歴史・人物で紹介していますが) |
1月27日 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、「極東の将来(The Future of the Far East)」講演 | ||
5月 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、「知られぬ日本の面影(日本瞥見記)」出版 | ||
9月11日 | 第五高等中学校、第五高等学校と改称 | ||
10月 | ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、第五高等学校辞す。11月、神戸のクロニクル社に入社。 | ||
明治28年 | 1895 | 秋 | ラフカディオ・ハーン、小泉八雲と改名 |
明治29年 | 1896 | 4月13日 | 夏目漱石(金之助、1867〜1919)、池田停車場(上熊本駅)に降り立ち、愛媛県松山中学校より第五高等学校に赴任。同僚菅虎雄の家に同居 |
5月10日 | 夏目漱石(金之助)、光琳寺(下通103番地、現下通り1丁目、ホテルサンルート付近)に新居を構える | ||
6月9日 | 夏目漱石(金之助)、中根鏡子(戸籍上はキヨ)と光琳寺の自宅(現下通り1丁目)で結婚式 | ||
7月 | 夏目漱石(金之助)、教授に昇進 | ||
9月 | 夏目漱石、合羽町(237番地、現坪井2丁目)の家に転居。「名月や十三円の家に住む」の家である | ||
明治30年 | 1897 | 春休み | 久留米に菅虎雄を見舞う |
4月 | 大学時代の友人山川信次郎、五高に赴任し、漱石の家に同居 | ||
9月 | 夏目漱石、大江村(401番地、現新屋敷1丁目)に転居(第3の家、現在水前寺公園東側へ移築、ジェーンズ邸隣) | ||
10月10日 | 夏目漱石、五高開校記念式典 で、教員総代として「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ・・・」と祝辞を読む | ||
12月31日 | 夏目漱石、山川信次郎と年末から明治31年の正月にかけ、小天温泉へ(草枕の旅) | ||
明治31年 | 1898 | 3月 | 夏目漱石、井川淵町8番地に転居(第4の家、藤崎宮と明午橋の間)「春の夜のしば笛を吹く書生哉」は明午橋をよんだものという |
7月 | 夏目漱石、内坪井町78番地に転居(第5の家、現在の漱石記念館、中央高校横)寺田寅彦が「書生にしてくれ、物置でもよい」と頼んだ家 | ||
明治32年 | 1899 | 1月20日 | 徳永直(1899〜1958)、現在の熊本市花園町に生まれる |
5月31日 | 漱石に長女「筆子」誕生。「安々と海鼠のごとき子を産めり」は、長女誕生の時の句 | ||
8月29日 〜 9月2日 |
夏目漱石、山川信次郎と阿蘇登山(二百十日の旅)。戸下温泉-->内牧温泉-->阿蘇神社-->阿蘇山頂-->立野 のコース | ||
9月27日 | 森鴎外(1862-1922)、熊本訪問 午後一時五十八分博多を発し、夕べに熊本に至る。池田より車を下れば・・・静養軒に至り、晩餐せしむ。夜研屋支店に投宿す。・・・静養軒は下通町一丁目にあり、研屋支店は手取本町にあり。(小倉日記より) |
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9月28日 | 森鴎外、熊本滞在 朝熊本衛戍病院内なる衛生材料支廠に至り、所管の材料を視る。官事畢りて後、三善支廠長この地の人真島某の蔵する所の大石良雄等自殺の図巻を示す。・・・図巻に拠れば良雄を介錯するものを安場一平といふ。当時細川家の物頭たり。・・・午後四時坪井町の宗岳寺に至りて、蟠龍子(注:享保年間の人。「大和女訓」の著者)の墓を拝す。墓は寺内瑩域の西北辺にあり・・・(小倉日記より) |
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9月29日 | 森鴎外、熊本滞在 | ||
明治33年 | 1900 | 3月/4月 | 夏目漱石、北千反畑町78番地に転居(第6の家) 鶯も柳も青き住居かな |
4月11日 | 中村汀女(破魔子 1900〜1988)、熊本市の江津湖のほとりに生まれる。女学校時代から江津湖の情景等を17文字に託す文才を発揮、大正9年結婚、翌年上京。 | ||
7月 | 夏目漱石、家族と共に帰京、英国留学へ出発(9月8日、横浜出航。官報の明治33/9/11の項に「文部省外国留学生第五高等学校教授夏目金之助ハ昨十日孰モ出発セリ(文部省) 官報 明治三十三年九月 p184」)(官報情報は冨崎様より) | ||
明治36年 | 1903 | 1月21日 | 夏目漱石、英国留学を終わり熊本に帰任、新橋着(1/24
9:00)、その後第五高等学校辞す。4月第一高等学校講師、その後東京帝国大学文科大学英文科講師。官報には「明治36・1/28 〇学事 〇留学生帰朝 文部省外国留学生第五高等学校教授夏目金之助ハ 本月二十四日帰朝セリ(文部省) ―明治三十六年一月二十八日 官報 第5869号 P538」、「明治36・4/1 〇叙任及辞令 第五高等学校教授 夏目金之助 依願免本官 ―明治三十六年三月三十一日 官報 第5921号 P5」(官報情報は冨崎様より) 漱石は、帰国後一時熊本に帰ってきた?(長崎で下船し熊本に、翌日列車で東京へ出発) |
明治37年 | 1904 | 9月26日 | 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、狭心症で没 |
明治39年 | 1906 | 5月15日 | 乾信一郎、アメリカのシアトルで生まれる |
9月 | 夏目漱石、「草枕」発表。10月には「二百十日」発表 | ||
明治40年 | 1907 | 8月8日 〜 18日 |
与謝野鉄幹(1873〜1935 35歳)をリーダーに、北原白秋(早大文科23歳)、吉井勇(早大文科23歳)、木下杢太郎(太田正雄、東大医科23歳)、平野万里(東大工科23歳)の5人組の九州旅行「五足の靴」で、長崎から天草の富岡へ上陸したのが8月8日。その後、長洲、熊本、阿蘇と、10泊11日の熊本の旅は続く。(旅行そのものは7月28日から8月27日まで) |
明治43年 | 1910 | 1月2日 | 森鴎外、熊本訪問 朝風雪。厳島を発す。・・・小蒸気にて海峡をわたる。夕暮れに熊本に着き、研屋 支店に入る。(日記より) |
1月3日 | 森鴎外、熊本滞在 半晴。歩兵第十三連隊、同第二十三連隊、騎兵、砲兵、工兵の兵営を逐次に視る。歩兵第二十三連隊の将校集会所にて午食す。官事畢りて成趣園にゆく。世にいふ水前寺なり。・・・・夕に精養軒にて宴会あり。知事川路利恭臨席して活話す。曾て千住警察署長たりしとき余を見識ると云ふ。(日記より) |
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1月4日 | 森鴎外、熊本滞在 雨。地方幼年学校、輜重大隊、衛戍病院を視る。夕暮熊本を発して久留米に至る。(日記より) |
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明治44年頃 | 1911 | 林芙美子(1903〜1951)、少女時代、行商の父母に連れられて一時熊本市にも住んだ | |
大正2年 | 1913 | 1月 | 森鴎外、「阿部一族」を中央公論1月号に発表 |
大正4年 | 1915 | 1月13日 | 渕上毛錢、水俣市陣内(当時は葦北郡水俣町)に生まれる |
大正5年 | 1916 | 種田山頭火(正一 1882〜1940)、家が破産し妻子を連れて熊本に移り住み、下通りに文具店「雅楽多」を営む(現在のダイエー下通り店付近) | |
6月26日 | 高群逸枝が美里町の眼鏡橋「鶴木野橋」の崩落現場に居合わせ「釈迦院川」に記す | ||
大正13年 | 1924 | 海達公子、小学校2年生。「とがったひしのみ うらでもずがないた」が、赤い鳥の7月号に掲載され、その後次々と作品を発表 | |
大正14年 | 1925 | 種田山頭火、44歳で出家、鹿本郡植木町の味取観音堂の堂守となる | |
昭和2年 | 1927 | 9月18日 | 徳富蘆花没 |
昭和7年(8?) | 1932 | 与謝野鉄幹、五足の靴一行と訪れた天草が忘れられず、妻晶子を連れて再び熊本を旅する。夫妻は熊本を周遊し、県内各地に数多くの歌を残している | |
昭和8年 | 1933 | 3月26日 | 海達公子、女学校卒業直後没、16歳 |
昭和17年 | 1942 | 5月末 | 宗不旱、阿蘇内牧温泉の宿を出たまま消息を絶つ。その後、同年9月に北外輪、鞍岳の山麓の水辺で遺体が発見されますが、それが不旱のものだと確認されたのは20数年経ってのこと。享年59才 |
昭和25年 | 1950 | 林芙美子、天草を取材旅行で訪れ、後に「天草難」に発表 | |
昭和25年 | 1950 | 3月9日 | 渕上毛錢没、35歳 |
昭和27年 | 1952 | 吉井勇が再び天草を訪れ、歌を詠む「ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島」 | |
平成12年 | 2000 | 1月29日 | 乾信一郎没 |
平成16年 | 2004 | 7月17日 | 北御門二郎没 |
12月25日 | 光岡明没 | ||
平成20年 | 2008 | 6月22日 | 島一春没 |
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本ページは作成途上であることをお断りしておきます。(最終更新:2009/05/25)