熊本文学散歩


井沢 蟠龍子いざわ ばんりゅうし

 享保年間に活躍した肥後藩士で、関口流居合の達人であり、肥後の「葉隠」とも言える「士道訓」など多くの著書がある。武芸者としてだけでなく、思想家、国学者としては神道を究め、「広益俗説弁」、「大和女訓」、「神道訓」など、俗説や迷信を弁別し考証したの啓蒙書を、100巻以上執筆して京都で出版。郷土史家としても、「肥後国史」、「肥後地誌略」、「南関紀聞」等を編集し、元禄から享保にかけて郷土史の黄金期を築いた功績は大。森鴎外も明治32年、熊本を訪れた際、上林町の宗岳寺の境内にある墓を参っている。(以上、熊日新聞社発行の「熊本の人物」や森鴎外研究家の富崎様からの情報を参考に)

 つい先日まで「井沢蟠龍(ばんりゅう)」という名前さえ知りませんでした。実は、森鴎外のページを閲覧された方からの情報で初めて知ることになりました。(そこには「蟠龍子」とあり、「蟠龍子」とはいったい? 手元にあった辞書を調べてみると「蟠龍子」の「子」とは学問上独特の見識をもって一家をなした人の称、また「蟠龍」とは、「龍が天に昇らず地上に蟠(わだかまる)こと」、すごい名前!) そこで図書館で、熊日新聞社発行の「熊本の人物」の中に、「井沢蟠龍」の名前を発見することに。さらにインターネットを使い「蟠龍」で検索、「1998年度日本史研究会大会に向けて(近世史部会共同研究報告)」のページ(http://www.hist.shimane-u.ac.jp/Nihonshi/kobayashi/paper.html)など、様々な蟠龍子の情報と出会うことに。その課程で気付いたことに、「熊本の人物」には、「寛文11年(1671)に生まれ、享保15年(1730)63歳で没した」と記されていますが、没年齢と生年が不一致、生年は寛文8年(1668)が正しいか。(誤記の批判ではなく、情報取得への自己責任と情報発信等で注意しなければならないという再確認)

 神道に志し、山崎闇斎の門に入って垂加神道を究めたが、その後神道の域を脱し、啓蒙的見地から、古典をはじめ、和漢の書籍に通じ博学多識であった。武芸にも堪能で、その武士道論も自らの体験を基礎とし、机上の空論に終わるものではなかった。女子教育にも関心が高く、武士道論も女子教訓も、ともに神道精神を基礎を中枢とし、これに立脚するものであった。(岩波書店発行「日本古典文学大辞典」を参考に)ここには「いざわばんりょう」と。

 そもそも「蟠龍子」の情報を得たのは、本校の「森鴎外のページ」に「たかだか3日間の滞在でしたが、後に乃木大将の殉死(1912年9月)に触発され、封建武家社会の悲劇をテーマとした歴史小説(興津弥五右衛門の遺書や阿部一族を生むきっかけになった・・・」と書いていますが、「森鴎外は熊本に2度来ている」とのメールをいただいたことからです。メールには、鴎外の「小倉日記」の抜粋もあり、明治32年9月28日「・・・午後四時坪井町の宗岳寺に至りて、蟠龍子(注:享保年間の人。大和女訓の著者)の墓を拝す。墓は寺内瑩域の西北辺にあり・・・」とあったからです。宗岳寺は上林町にあり、信愛女学院の裏手(左地図参照)にあたることを電話帳で見つけました。現在の住所は上林町ですが、昔は新坪井村とか南坪井町とも。

 「森鴎外ほどの文豪が墓参りをした人物とはいったい?」 そんな興味を抱いたことが、本ページ作成のきっかけでした。今まで知ることもなかった郷土の偉人。なぜ、これまで知ることがなかったのかというのも、疑問となりました。最初、何人かの先生たちにお聞きしたのですが、ご存知ありませんでした。「広益俗説弁」や「大和女訓」とは、どんな内容なんでしょうか。今まで聞いたこともなかったということは、現代になじまない内容なのでしょうか。解らないことばかりでした。

 そこで、まずは墓参りということに。墓(左の写真中央)は宗岳寺本堂左手にあり、「井澤蟠龍先生長秀之墓」の墓標は、はっきり読み取れますが、案内標識は下部が朽ち果て倒してありました。以下、案内標識の読み取れた部分を記しておきます。(H14.2.4)
<寛文8年(1668)生〜享保15年(1731) 細川藩士250石の家に生まれる。通称は十郎左衛門・・・(判読不可)・・・の門に学んで垂加神道に明るく、また国学・儒学に精通し、武道では関口流居合術を究めた。著書としては今日の百科全書のような「廣益俗説弁」や「武士訓(左下に写真)」、「大和女訓」などの教訓書、「肥後国史」、「肥後地誌略」の地誌、歴史書など多様。>
注:判読不可部分を推測すれば「名は長秀。山崎闇斎」か? 山崎闇斎(1618〜1682)は江戸時代の儒学・神道に秀でた学者で、崎門派や垂加流神道の創始者として多くの門弟を育てた。なお、享保15年(1730)か?)

 広益俗説弁は今日でも様々な書籍にその内容が引用されている名著のようです。広益俗説弁は義経伝説や金太郎をはじめと、古来からの伝承話などをまとめたもので、一種の故事百科全書とみたいなものでしょうか。後に滝沢馬琴の読本の素材となったことでも知られています。平凡社の東洋文庫にあるようですが、県立図書館にもなく、未読ではありますが、余程の博学多識ではなければ著せない本のようです。他にも武士・男子・女子教育書なども、様々なジャンルを究めた大変な才能の持ち主であったことは確かです。

 以上のように、調べるほどに、大変な人物だということに気付いてきました。今で言うならば、スーパースターですね。武道家で、思想家で、学者で、ベストセラー作家でもあったということでしょうか。郷土熊本の人のことなのに、他県の人からの情報で知ることとなりました。恥ずかしいというより、これも「インターネットでの情報発信の賜物の一つだ」と、うれしく思っているところです。

 余談となりますが、鴎外が墓に参った明治32年当時といえば、夏目漱石が内坪井町(上記地図参照)に住んでいた時期と重なります。明治の日本を代表する2大文豪が、300m程の距離で「すれ違っていた」という偶然も興味深いものです。明治29年1月3日、正岡子規主催の句会で1度は面識があった二人ですが、深い付き合いではなかったようですね。鴎外自身、漱石が熊本に住んでいたということも知らなかったのかも知れませんね。

 みなさん、「井沢蟠龍子」に関心を抱かれたら、宗岳寺へいってお墓をお参りしてみませんか。そして、 ご住職さんにお話をお伺いしてみませんか。新たな情報に出会えるかもしれません。私も話をお聞きしたいと思っていますが、参拝当日はあいにくご来客中のようで、お会いすることができませんでした。また、蟠龍子が伝えた関口流抜刀術の十五代宗家「米原亀生」先生も熊本に在住、蟠龍子の技と精神を今に伝えておられます。「武士訓」の写真は米原先生のお宅で撮影させていただきました。関口流抜刀術や宮本武蔵の二天一流に興味をもたれたら、米原先生をお訪ねしてみませんか。

 なお、宗岳寺から上通り側に出れば「並木坂」、ここは下通り南側の「シャワー通り」と並ぶ若者に人気の通りです。新旧入り混じった歴史を感じさせてくれる地域でもあります。少し裏側へまわれば土蔵作りの古びた家並みとも出会うことができます。また、お寺から反対方向の坪井川方面に歩けば、熊本城のお堀沿いの「お城巡りの散歩コース」です。
 お城から上通りや坪井町界隈をゆっくりと歩いてみませんか。車や急ぎ足で通り過ぎるだけでは、絶対に味わうことができない、新たな「熊本の町」を発見することと思います。(2002/02/04)


 ところで、本ページを閲覧された井沢蟠龍研究家の方から「情報源がいささか狭すぎます。インターネットでの検索の限界が見えるような気がします。パソコン同好会だからそれでいいと言われるかもしれませんが、ふるさと文学散歩というからには、国文学や国史学などの検索ツールをもっと使うべきでしょうし、活動の幅をひろげるためにもそうあるべきでしょう。」との厳しいアドバイスメールをいただきました。確かにご指摘の通りかと思います。今後、難解な専門書は無理ですが、様々な情報に出会い次第、徐々に更新し続けたいと考えています。しかし、研究者の方からメールをいただけるなんて光栄に思います。今後ともご指導の程よろしくお願いいたします。(2002/08/02)

 本ページを閲覧された関口流抜刀術・兵法二天一流東京支部長の中山洋一様より、井沢蟠龍を知る上で参考となるメールをいただきましたので、ご紹介します。あわせて、関口流抜刀術のホームページも紹介いただきました。(2002/03/19)

最終更新:2004/06/14


<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会
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