熊本文学散歩


「井沢 蟠龍子」参考資料

 関口流抜刀術・兵法二天一流東京支部長をされている中山洋一様より、以下のようなメールをいただきましたので、参考資料としてご紹介いたします。中山様にはメールをいただいたばかりか、本ページへの掲載をも快諾いただき、感謝申し上げます。(2003/03/19)



インターネットで検索の所、貴校のホームページにて「肥後文学散歩道」があり、井澤蟠龍長秀先生の事が取り上げられていたので大変驚き、メールを差し上げた次第です。
私は、井澤先生が熊本に伝えた関口流抜刀術の十五代宗家に学ぶ門人の中山といいます。東京都在住。本業は銀行員です。
私が調べた井澤先生の事は私の先生が宗岳寺に度々井澤先生の墓を詣でていたところご住職の堀田大心様と懇意となり便覧等にも井澤先生の事を詳しく書いて頂いた内容を要約したものですが以下に付記いたします。ご参考にして頂ければと思います。

熊本には良いものが沢山残っています。私は東京在住ですが熊本に伝わる武道という文化財を学ぶ為に東京からせっせと通ってまでこれを学び励んでいます。私の他にも熊本の文化財を学ぼうとして通う仲間が沢山います。
所で、特に東京の人間から見てとても不思議なのは、熊本にはこんなにも貴重な文化財が多くあるのに熊本に住んでいる人たちはほとんどそれらを知っている事ながく、かえって東京から熱心に訪れる人たちが一生懸命調べている実態があります。熊本の地元の人達がもっと自分達の地元の良さを特に青少年を中心に顕彰すべきとおもいます。しかしそうした中、今日は貴校のホームページを参照してとても心強く思いました。
井澤長秀先生の事は東京神田の書店街にいくと大変良くしられています。一般に文学者/国学者として知られる。一方で武道の達人であった事や関口流抜刀術の事は余り良くしられていないのは残念な事です。
私達の先生はこの関口流抜刀術と宮本武蔵玄信が熊本に残した二天一流を伝える先生で米原亀生先生です(熊本市在住)。この2月にも東京の日本武道館で文部科学省も後援の日本古武道大会で演武されており
著名な方ですが、これも以外と熊本の地元では知られていないのではないでしょうか。二天一流など映画やドラマで武蔵のいい加減なチャンバラ等はよく目につきますが、これが本物で正しく伝えられた技だ、というものは、かえって知られていないのだと思います。貴校の若い方々には今後の日本の事も、世界の事も、そして地元熊本の事もよく理解して頂ける方になって欲しいものと願う次第です。

私共のHPはあくまで個人レベルで運用するつたないものですが次の通り紹介します。
http://www.h4.dion.ne.jp/~higo-ryu/index.html



関口流抜刀術第三代井澤蟠龍長秀について
関口流抜刀術は別名「肥後流居合」ともいわれるが、この流儀を肥後熊本の細川藩にもたらした肥後藩士井澤蟠龍長秀を紹介する。本文執筆にあたり井澤長秀が眠る熊本市上林の宗岳寺の便り 「ルンビーニ」(住職の堀田大心著)を参考にさせて頂いた。
<井澤氏の祖>
始祖は井澤源太郎左衛門といい京都宇治の産。
天正九年に細川幽斉公に召出され御中小姓となりその嫡子甚助に至り300石を賜る。
甚助には弟があり井澤勘兵衛永清といい慶安元年武芸に長じていたので細川光尚公に見いだされ別禄400石を賜わったが、これが井澤氏初代で井澤蟠龍長秀の父である。
 
<井澤蟠龍長秀の略歴>
井澤氏、姓は源、名は長秀、十郎左衛門と称し、蟠龍と号し、別に亨斉ともいった。
長秀は父勘兵衛は細川綱利公にも仕え江戸在勤を命ぜられたので江戸で多くの年月を過ごした。
長秀が熊本に帰った年齢は不明だが菊池軍記の自序(四十一才)より想像すれば三十年近くは江戸に居たらしい。
元禄十年二月に父勘兵衛が病没した時に、三十才で跡目を継いだ。
三十五か六の頃、一時肥後南関御番所に奉じる。
次いで正徳元年六月にお留守御番方に転じる。
享保五年二月、御鉄砲十挺頭、同十二年九月には二十挺頭となる。
享保十五年十二月三日に病没。六十三才であった。
 
<井澤蟠龍長秀の人となり>
資性実直にして、服装や我身を飾らず手には常に書冊を持ち、一日たりとも威儀を乱した事はなかったという。
朝は夜のあけないうちに起きて湯を沸かし髪を結い身支度して後、家族や家来を起こし開門、何時に訪問しても威儀を正しくしていた。
熊本市上林の宗岳寺にある長秀の墓碑には
 「父に従って江戸府にある日深く神道に志し山崎垂加翁の門人を訪い その奥秘を探りその淵源を究む和漢の載籍に亘り事知らざるなし」
とあり少壮時代の刻苦勉励と志が非凡であった。
また幼より武芸に励み壮に及んで最も剣に精通し、特に抜刀術には優れた技を極め、熊本における関口流抜刀術の師範となり、常の刀は二尺三寸であったが、三尺三寸の刀を佩いていたという。
関口流抜刀術は長秀が江戸在住の折関口流柔術で有名な渋川伴五郎の門に入門しその抜刀の部のみを肥後熊本に伝えたものである。
 
<井澤蟠龍長秀の主著「武士訓」>
正徳、享保時代の熊本の士風は、学者は武人を愚弄し、武人は学者を軽視して互いに反目していたが、長秀はこれを憂いていた。
「武士訓」には以下の通りある。
   文は学ぶにたらずというは武の本意を知らざるなり。
   文武は車の両輪の如く鳥のニ翼に等しければ、片方欠けても意義なし。
以 上

関口流抜刀術・兵法二天一流
東京支部長 中山洋一 

連絡先:sekiguchiryuiai@excite.co.jp

最終更新:2004/10/30


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