熊本文学散歩


森 鴎外もり おうがい

森鴎外 小倉の第12師団軍医部長だった森鴎外が、病院視察を兼ねた休日旅行のため熊本を訪れたのは、明治32年(1899年)9月27日から29日まで。高々3日間の滞在でしたが、後に乃木大将の殉死(1912年9月)に触発され、封建武家社会の悲劇をテーマとした歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」(1912年10月)や「阿部一族」(1913年1月)を生むきっかけとなっています。(小説を発表する3年程前「明治43年(1910年)1月2~4日」にも、熊本を訪ねていることが後で解りました

 「興津弥五右衛門の遺書」では、殉死という行動への一種の「共感じみた悲壮美」が表現されているようです。ところが「阿部一族」では、一転して、その「非人間性への批判と怒り」が感じられます。3ヶ月後に発表された「阿部一族」は、殉死に対する鴎外自身の自己批判だったのでしょうか。当時、乃木大将の殉死というのは大事件だったに違いありません。鴎外ほどの人物さえ世評に流され、一時的にせよ冷静さをなくしたのでしょうか。しかし、鴎外に対する人間的興味は倍加します。自らの考えの過ち(?)を素直に訂正するところは、さすがに大人物、実に尊敬に値するすばらしい人間「鴎外」ではないでしょうか。世評に流されてしまうという一面は、誰にでもあるということを自覚しておきたいものです。

阿部一族(?)の墓地 阿部一族は、寛永18年(1641)藩主細川忠利の死去に際し、再三殉死を願い出るが許されず、周りから卑怯もの呼ばわりされた阿部弥一右衛門(やいちえもん 弥市右衛門とも)が後追いの切腹をしたために、一族がとがめられることになります。そして屋敷に一族が立てこもり、討手と戦い全滅してしまった事件を扱っています。当時の風習としては「許しなしの殉死」は「犬死に」ということ。なぜ弥一右衛門だけが殉死を許されなかったのでしょうか?私は殉死という制度そのものにも納得がいきません。殉死が許された18人と、その後を追って死んでいった犬の墓は、市内に残っています。しかし、阿部一族の墓は、いったいどこに(本ページを発信した時点で)あるのでしょうか?事件の流れを追えば、不合理というか、納得できないことばかりです。

 右上の写真は、御船町の東禅寺境内です。弥一右衛門らの墓とは断定できないが、阿部一族ゆかりの墓であると伝えられています。東禅寺は国道445号線沿い、御船警察署から山都町方面へ2km程進んだ東禅寺バス停の左手です。本堂の左裏手の坂道を上った木立の中にあります。

阿部屋敷の案内板、また新しくなりました。クリックすると新しい案内板の拡大写真が! 阿部一族の舞台となった阿部屋敷は、熊本市山崎町(現在の熊本放送の一角)にあったことが確認されています。今は放送局の玄関横に阿部屋敷跡の案内板が残っているだけです。(ところが、平成11年11月、写真を撮りに行ったのですが、放送局建設工事のため撤去中でした。案内板が復原されるのかも未定とのこと) その後、プレートが再び設置されましたので、左に写真を紹介(2005/05/27)します。放送局のビル南側に当たる場所です。写真をクリックするとプレートの文字が読める大きさの写真が現れます。いつの間にか案内板が新しくなりましたので、写真を更新しました。以前の案内板の写真もここに。(2008/08/04)

 「阿部一族の墓が、上益城郡御船町の東禅寺と、北岡自然公園の近くと、2箇所あるとか…?」とのメールを頂き、調べてみました。 
 熊本市が昭和55年に発行した本「ふるさと」に、「阿部弥市右衛門の墓は、かろうじて他の18人の殉死者と共に、妙解寺(北岡自然公園内)に設けられた」という記述がありました。「殉死が許された18人と、その後を追って死んでいった犬の墓は、市内に残っています。しかし、阿部一族の墓は、いったいどこにあるのでしょうか?」と本ページに書いていましたが、「弥市右衛門以外の墓は何処に?」と変更すべきでしょう。殉死を許された18人と墓が一緒とは、何かおかしいようにも。「一族の行動は何だったのか?」更に合点がいかない部分が残ります。気持ちとしては一緒に葬って欲しいのは当然です。御船の東禅寺の墓は、誰のものかはっきりしていないのですが、屋敷に立てこもって全滅した弥市右衛門の遺族たちの墓ではとの期待も高まります。
 

 ところで「弥市右衛門」なのか、それとも「弥一右衛門」か。小説では「一」で、北岡自然公園の墓(右写真)には「市」。墓碑が正しいのなら「市」かと。熊本市文化財保護課にもお尋ねしたところ、平成肥後国史に「弥市右衛門」とあるとのこと。森田誠一著「熊本県の歴史」にも「市」が使われています。ところが、永青文庫に残っている自筆の署名は「弥一右衛門」。昔は本人でも様々な当て字を使ったようで、どちらが正しいのかは解からないようです。YAHOO!で検索したら、阿部弥市右衛門が9件、阿部弥一右衛門が59件、小説の影響大というところでしょう。本ページでは小説に関する部分には弥一右衛門を使用しました。

 妙解寺跡の19の墓碑は同時期に建立されたとのこと。元々19人の殉死者に区別はなかったとも言われています。殉死を希望したものは22名、ほとんどが殉死を制止されており、許可されたと言われているのは3人程で他は全て許可なしだったとのこと。本当は弥市右衛門以外の大部分も「犬死」なのです。史実と小説の虚構の部分を混同しているところがあるようです。小説はあくまでも作者の構想のもとにした虚構の物語。フィクションの世界ということを頭では理解はしてても、事実と思い込んでしまいます。活字の怖さでしょうか、気をつけたいものです。(2005/06/15)

 
 「森鴎外の熊本訪問は1回ではなく、もう1回(明治43年1月に)あった」とのメールを頂きました。本ページ発信当初、冒頭で「たかだか3日間の滞在」と書いておりましたが、合計「6日間」となり、訂正しなければなりません。「阿部一族」発表の3年程前(明治43年1月2~4日)にも、2泊3日の熊本滞在があったとのことです。冨崎様、ありがとうございました。
 
熊本滞在中の日記の抜粋や興味深い情報を頂きました
森鴎外情報その1 森鴎外情報その2
作成:1996/07/29 最終更新:2008/08/04
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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