熊本文学散歩


五足の靴(ごそくのくつ)

天草の地図
ガルニエ神父の銅像

大江天主堂の写真 「五足の靴」とは、明治の終りに九州を旅した5人の文学青年たちが東京の新聞社に書き送った紀行文の題名です。
 明治40年(1907)の夏、新詩社主宰の与謝野鉄幹(35歳)と、その同人である北原白秋(早大文科23歳)、吉井勇(早大文科23歳)、木下杢太郎(太田正雄、東大医科23歳)、平野万里(東大工科23歳)の「5人の詩人」が、東京から九州へと旅立ちます。途中、白秋のふるさとである福岡の柳川に立ち寄り、長崎から暴風の荒海を、船で天草の富岡へ渡ります。
 上陸後、天草西海岸沿いを旅しながら、紀行文を更に書き綴っていきます。(その「五足の靴」原文の熊本県内関係の抜粋が別ページにあります。)

 五足の「草鞋わらじ」ではなく「靴」、明治にしては実にハイカラな響きです。素朴で自然豊かな天草の情景が更に映えてくるようです。東京から来たハイカラな青年達にとっては、見聞きするすべてが、新鮮な驚きと感動そのものであったことでしょう。そうした若者達の感動が数々の詩歌を生み、次々と紀行文を書き綴っていったのではないでしょうか。青い空と海、緑の大地、滴る汗、飛び交う会話、この旅で体感した全てを書き綴ったのが「五足の靴」です。印象的だったのは「五足の靴は驚いた。東京を出て、汽車に乗せられ、唯(ただ)僅(わずか)に領巾振山(ひれふるやま)で土の香を嗅いだのみで、今日まで日を暮したのであった、初めて御役に立って嬉しいが、嬉しすぎて少し腹の皮を擦りむいた、いい加減に御免蒙(こうむ)りたいという。併(しか)し場合が許さぬ、パアテルさんは未だ遠い遠い。」という部分。パーテルさんとの面会が近づき、はやる5人の心が刻々と伝わってきました。

 5人は大江の天主堂(右上の写真の天主堂は昭和8年に建設されたもの)で、あこがれの宣教師パーテルさん(フランス人、ルドヴィコ・ガルニエ神父に対する親愛をこめた呼称。左下の写真は天主堂横にある銅像。pater はラテン語でお父さん、即ち神父さんのことらしい)に会い、キリシタンのゆかりの秘蔵の「クルス」を見せてもらいます。そして「五足の靴」旅の最大の目的を果たし終えるのです。異国の地で、ひっそりと信仰の灯を灯し続けている青い目の神父の姿に、5人の若者は強烈な印象を覚えたのでしょう。(400年以上前、キリスト教は天草の全島に普及していた。島原天草の乱後も、隠れキリシタンとして信仰は堅く守られていた。明治6年のキリスト教解禁と同時に布教が始まり、明治12年には教会を建設。当時は古材を寄せ集めた粗末な建物で、現在の白い教会は昭和8年、ガルニエ神父の手で建設されている。よって、5人が訪ねた頃はまだ民家風の建物である)

 この旅での体験は、紀行文「五足の靴」以外にも、木下杢太郎は詩集「天草組」、北原白秋が「天草雅歌」や「邪宗門」などで発表しているものだけではないでしょう。5人の青年時代の天草の旅は、彼らの南蛮文学をはじめとする、その後の創作活動や人生に大きな影響を与えたのは間違いないようです。

 
吉井勇が晩年、当時を回想して歌を詠んでいます。天主堂前に歌碑(昭和27年建立、写真奥の碑)があります。
 
白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿
 
写真の手前は、昭和27年秋の除幕式に出席し詠んだ歌の碑で、平成13年6月に完成しています。
 
ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島
 
写真は2001/09/23撮影
大江天主堂前の文学碑

遊歩道写真 昭和27年、再び天草を訪れた吉井勇は「ルドヴィコ・ガルニエ氏(パアテルさん)に会ったのは今からもう四十五、六年前になる。何しろその当時の私たちは、異国情緒ということを唱えて、南蛮文学に関心を持ちはじめた時代のことだからこの旅行の目的も、専ら切支丹の遺跡を尋ねることにあったので、平戸、長崎などに探求の足を運んだ後天草に渡り、大江村の天主堂にパアテルさんを訪れて旧教の歴史などを聞くことも、最初から旅程に入っていた。・・・私達がパアテルさんに、如何に若き日の思慕の情を寄せていたかということも・・・。異国情緒に最も心酔していたのは、白秋と杢太郎だったが、私もいくらかその影響を受け・・・。白秋などと共にした旅は、私の一生を定めた旅に外ならないと思った。」などと回顧しています。

 近年、天草を訪れ、五足の靴の足跡を追って、大江の天主堂を訪れた女流歌人の俵万智さんも、「5人のその後の文学活動に大きな影響を与えることになった」と、「五足の靴の旅」の文学的成果を大きく評価しています。

 私には、その文学的成果が如何なるものかは解りませんが、郷土の情景を誇りに思っています。天草の美しい海・山や素朴な人情との出会いが、美しい言葉や優れた文学作品を生み出しています。皆さんも一度天草西海岸を歩いて見ませんか。現在、5人の詩人たちが歩いた道の一部が文学遊歩道(左写真:2003/12/26撮影、下に地図)として整備(駐車場や記念碑なども、平成13年10月21日完成)されています。下田には温泉もあり、東シナ海でとれる新鮮な海の幸も豊かで、日本で一番最後に見える、きれいな夕日も抜群です。

 秋には毎年、この「五速の靴」を記念して「五足の靴顕彰全国短歌大会」が開催されています。詳しくは天草市役所天草支所(TEL:0969−42−1111 FAX:0969−42−0549)にお問い合わせください。下田温泉観光案内所(TEL:0969-42-3239、下の地図の観光案内所)もあります。

 ところで、宣教師パーテルさんのお名前ですが、各種の本やWEBに「ルドヴィコ・ガルニエ」、「ルドヴィコフ・ガルニエ」、「ルドビコフ・ガルニエ」、「ルドビコ・F・ガルニエ」、「フレデリック・ガルニエ」など、いろいろ紹介されています。ちなみに、大江天主堂の銅像の碑文(上に写真)では「ルドビコFガルニエ」となっています。ミドルネームのイニシャルがF、即ちフレデリックで「ルドヴィコ・フレデリック・ガルニエ」がフルネームではないかとも推測できます。「ビ」と「ヴィ」は単なる音表記の違いで、さほど問題ないかも知れませんが、WEBで検索することも考えると、統一したほうがいいのかも知れません。正式な名前はどう表記すればいいのでしょうか。アドバイス頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。


 
      
与謝野鉄幹(よさの てっかん 明治6年〜昭和10年) 本名:寛
 歌人。京都生まれ。雑誌「明星」を創刊し、浪漫主義文学運動を展開。歌集「東西南北」など。
北原白秋(きたはら はくしゅう 明治18年〜昭和17年) 本名:隆吉
 詩人、歌人。福岡県柳川市生まれ。(実際に生まれたのは、母親の実家があった熊本県内の南関町)詩・短歌・児童文学など、広く活躍。詩集「邪宗門」、「思い出」、歌集「桐の花」など。
吉井勇(よしい いさむ 明治19年〜昭和35年)
 歌人、劇作家、小説家。東京生まれ。歌集「酒ほがひ」「祇園歌集、戯曲集「午後三時」」など。
木下杢太郎(きのした もくたろう 明治18年〜昭和20年) 本名:太田正雄
 医学者、詩人、劇作家。静岡県生まれ。詩集「食後の唄」、戯曲「南蛮寺門前」など。
平野万里(ひらの ばんり 明治18年〜昭和22年)
 歌人。埼玉県生まれ。「明星」、「すばる」に短歌や小説を発表。歌集「若き日」など。
 
五足の靴散歩道マップ
 
最終更新:2008/11/19

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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外部リンク:「五足の靴」の旅(5人が旅した全行程を紹介)