熊本文学散歩


檜垣の媼ひがきのおうな蓮台寺れんだいじ

 檜垣の媼(写真は蓮台寺に伝わる檜垣像で、神原先生より戴きました)は、平安時代の延喜(901)から寛和(986)頃までの女流歌人である。若い頃は京都や太宰府に住み、貴族階級と親交を結び、その美貌と文学的才能で名声を得ていたが、藤原純友の乱の後、肥後白川のほとり、蓮台寺付近にたどり着く。ここにささやかな庵を構えて住み、西方の金峰山麓にある岩戸観音を信仰・日参した(後には岩戸観音近くに庵を構えたとも?)と言われている。

 ある日、時の肥後の国の国司が通りかかり、媼に水を求めたところ、思いがけなくも、昔都でならした檜垣の老い果てた姿であることに気づく。檜垣は純友の乱(939)で家も焼け、一切の財産を失い、落ちぶれていたのである。国司は着ていた自分の着物を脱いで檜垣に与えたという。その際、檜垣が詠んだのが

年ふればわが黒髪も白川の みづはくむまで老いにけるかな

という歌である。「髪も真っ白、自分で水をくまなければならない程落ちぶれた」とは、若い時はすごい身分の人なんですね。(この歌に関して別ページにも!)

 この国司こそ、後撰集の撰者で「梨壺の五人」の一人としても有名な清原元輔(もとすけ)である。清少納言の父親であり、当時の歌壇の大御所でもある。その後、元輔が肥後の国の国司として在任中、檜垣は国司官邸に親しく出入りし、国司夫妻とともに、趣味的生活を送るのである。任期が終わり、元輔が帰京する時、檜垣は惜別の歌として

白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思い忘れん

と詠んでいる。「白川の水が涸れてしまっても、、あなたを忘れません」とはすごいな。永遠に忘れないということですね。


 檜垣が庵を構えていた場所が、現在の蓮台寺(桧垣寺とも、熊本市蓮台寺 2-10-1 電話:096−325−7737)である。国道三号線から蓮台寺橋を渡って右折、白川添いにある。(JR操車場東方にあたり、別ページに地図も

 現蓮台寺は、九品山浄土院といい、浄土宗西山禅林寺派の千有余年の歴史を持つ由緒ある古刹である。檜垣が草庵を結び住み、観音菩薩を安置し、信仰生活を送ったのが寺歴の始まりという。  境内には草創期のものと思われる「檜垣石塔(お墓、上の写真)」や、隣接の天満宮(元は蓮台寺境内)境内には、岩戸観音への信仰厚い檜垣が水を汲んで日参したと言われている井戸跡なども。  寛政年間(1790)、白川の氾濫で水害や疫病でなくなった人々の冥福を祈り、荒れ果てた田畑の復興と五穀豊穣を祈って、当時の住職が千日托鉢行脚を行い浄財を集めてできた「千体地蔵」も。
檜垣塔(上中央写真)横には、謡曲史跡保存会の案内板
 

 檜垣(桧垣)は架空の人物という説もありますが、熊本の蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰していたと伝えられています。檜垣(ひのきの薄い板を編んで作った垣根)がある家に住んでいたので、その名を残しているとのこと。檜垣選集をはじめ、後選和歌集や大和物語に彼女の歌が残っています。左遷(?)させられて都落ちする友人たちを「気落ちすることもないよ、九州にはこんなすばらしい歌を詠む才女がいるんだ。一緒に和歌を楽しんでこいよ!」とでも慰めたのでしょうか。しかし、和歌に優れた才能豊かな女性が遠い平安の昔、我が熊本に住んで居たと考えるとうれしいものです。檜垣の跡を追って、蓮台寺や岩戸観音の周囲を歩いてみませんか。きっとすばらしい風景や人と出会えることと思います。(2001/04/13)

最終更新:2003/12/21

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<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会