熊本文学散歩


峠の茶屋と岩戸観音(漱石、武蔵、檜垣の媼)

 

 熊本市の西にそびえる金峰山の中腹は、平安、江戸、明治と時代を隔て、女流歌人「桧垣の媼」、剣豪「宮本武蔵」、文豪「夏目漱石」、それぞれのゆかりの地です。


 夏目漱石の小説「草枕」に、「”おい”と声を掛けたが返事がない」の一節がありますが、この茶屋が登場します。漱石が明治30年12月、同僚山川信次郎とともに、島崎(熊本市)から小天温泉(天水町)まで峠を越えて歩いた道すじにあたります。当時は、河内町(熊本市)の鳥越(とりごえ)と野出(のいで)の2カ所に茶屋があったようで、作品の舞台となったのは野出の方だといわれております。
 熊本市の西にそびえる金峰山の中腹には、平安、江戸、明治と時代を隔て、女流歌人「桧垣の媼」、剣豪「宮本武蔵」、文豪「夏目漱石」のそれぞれのゆかりの地が残っています。

熊本市西方の金望山を越えて小天温泉がある
峠は金峰山の登山ハイキングコースにあるため、訪れる人も多い。鳥越に残っていた峠の茶屋は老朽化のため取り壊されましたが、最近復元(上の写真)されました。この新しい峠の茶屋には付近でとれた農産加工物などが販売され、また漱石関連の書籍類なども展示されております。
 ここから金峰山を左手に見て山道を歩き、二ノ岳、三ノ岳の裏のほうまで(バスか車でも可)足をのばせば、小天温泉。ここが草枕の舞台「那古井(なこい)」の里であり、現在漱石館としてゆかりの部屋や庭が保存されています。

 なお、この茶屋から見れば、ちょうど金峰山の裏手になりますが、剣豪宮本武蔵がこもって「五輪書」を著したことで有名な岩戸観音・霊巌洞があります。地・水・火・風・空の5巻からなるこの書は、二天一流兵法の極意書で、全編強靱な実践的思索に貫かれており、今なおその魅力に取りつかれている人も多いようです。
 この岩山には五百羅漢があります。斜面いっぱい、あっちにもこっちにも羅漢さん、長い顔、丸い顔、怒った顔、笑った顔等々、顔立ち、表情が一つ一つ違っていて、実に面白いものです。時間が経つのを忘れてしまいます。ここでは必ず自分の知り合いの顔と出会えるとのことです。なぜか自分の顔に似てるとは思わないのかも不思議なものです。(峠の茶屋から歩いて30分ほど)


 ところで、平安時代の女流歌人桧垣(ひがき)も、この岩戸観音を信仰。晩年この近くに居住し、岩戸観音で修行したと伝えられています。彼女の歌を「後撰和歌集(天歴9年 955年)」より、

年ふればわが黒髪も白川の みづはくむまで老いにけるかな

 「時が流れ、黒かった髪も白くなり、今では白川の水を汲んでいます。川の流れとともに歳をとり、自分で水を汲まなければならないように、落ちぶれてしまいました。」と詠んでいるのでしょうか。

 ところで、「檜垣嫗集」には
おいはてて頭の髪は白川の みづはくむまで成りにける哉

 また、「大和物語」には、

むばたまのわが黒髪は白川の みづはくむまでなりにけるかな

 この3つの歌は、書き出しは違っていますが、全て「白川のみづはくむまで・・・」となっています。ただ、この歌の前書きに登場する人物は、太宰府大弐藤原興範(後撰和歌集)であったり、清少納言の父の肥後国守清原元輔(檜垣媼集)や藤原純友追捕使小野好古(大和物語)であったりします。その意味するところは、「檜垣」が中央歌壇まで、その名が知られていた超有名なあこがれの女流歌人であったということです。
 まさに平安のロマンかとも思われますね。都より遠く離れた西国の才女「檜垣」への想いがあったのでしょう。(年齢ではないのだ、あこがれは)それとも、都落ち(左遷)する平安貴族たちの一種の慰みだったのでしょうか。「辺地と言っても、こんなにすばらしい歌を詠む知的な女性がいるんだ。気を落とすことはないよ。楽しく歌を詠みあってきなよ。」などと。

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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