60数回の勝負に1度も負けたことが無かったという「二天一流(通称二刀流)の偉大な剣豪」は晩年を熊本で過し、武蔵の集大成と言うべき「五輪の書」を書き著します。 |
宮本武蔵の銅像(武蔵塚公園 熊本市龍田) 武蔵塚公園は、熊本市内から阿蘇へ向かう旧国道57号線(大津杉並木)沿いにあります。(この銅像は、厳密には島田美術館の肖像画とは構えが違います) 武蔵は天正12年(1584)美作国(岡山県)宮本村で生まれ、21歳の時の京都の吉岡一門との勝負や、29歳での佐々木小次郎との巌流島の決闘などが知られています。武蔵が、藩主細川忠利の客分として、熊本に来たのは、寛永17年(1640)、57歳のときでした。剣を通して人生を探求し続けた武蔵は、晩年の5年を熊本で過ごします。 宮本武蔵の墓 正保2年(1645)5月19日、62歳で亡くなっています。熊本時代の武蔵は、精神的にも経済的にも、最も安定した時期のようでした。死後も、細川藩主を守りたいとの遺言で、参勤交代の行列を見送る大津街道添いのこの地に埋葬されたとのことです。 ところで、武蔵の墓は、熊本市島崎(西の武蔵塚)にも。他にも泰勝寺(たいしょうじ 熊本市黒髪)、八代城内、岩戸観音(熊本市松尾)などにも。県外には、宮本村(岡山県英田郡)、徳願寺(千葉県市川市)、新福寺(名古屋市)など。何と墓碑の多いことか、武蔵の人徳がしのばれます。 |
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「五輪書」は、寛永20年(1643)武蔵60歳の時、熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」にこもって書きつづったもので完成は正保2年(1645)春。武蔵の死去は正保2年5月、「五輪書」は死の間際まで筆をとり続けた武蔵執念の書です。 地・水・火・風・空の5巻からなり、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」では駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を描いたもので、「空有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也。」と「兵法を究めることが善の道」と説いています。 兵法には剣技以外に、人身掌握術や対人関係の心構えなど様々な面がある。武器(道具)はその機能を熟知し完全に使いこなすことが大切。難題に対しても個々の問題を一つずつ着実に解決していけば何とかなる。何事にもタイミングやリズムが必要、等々。その教えは現代社会にも通じると思いませんか。武蔵は「兵法の道」の極意を極めたほか、「詩歌」「茶道」「彫刻」「絵画」「文章」「碁」「将棋」等にも秀た才能を発揮しています。 左の写真は武蔵塚公園にて。この写真の構えも剣の先が開いており、武蔵の二天一流の構えとは異なるとの情報も。これは野田派二天一流の構えとのことで、野田派の外にも様々な流派が伝えられています。今後の研究で武蔵本来の構えが確認できればいいですね。 なお、武蔵関連の資料については、島田美術館(熊本市島崎 電話:096-352-4597)のコレクションが有名で、「宮本武蔵」の常設コーナーもあります。 |
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武蔵修練の地「霊岩洞」 熊本市の西部、金峰山の裏手。隣接して五百羅漢の石仏群も、その先に進むと霊岩洞である。ここが武蔵が「五輪の書」を書き上げた場所です。 平安の女流歌人「檜垣」の修行の地でもあり、付近は自然散策コースとして整備されており、金峰山登山や草枕文学散歩コースとの組み合わせも可能です。 |
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西の武蔵塚 竜田の武蔵塚に対し、武蔵の高弟寺尾家の墓域(熊本市島崎)に。死の直前に武蔵が寺尾求馬助に「兵法三十五箇条」を、その兄孫之丞に「五輪書」を授けて二天一流正系を伝えたところから、愛弟子の墓域に葬られたという説も(西の武蔵塚横の案内板より)。藤崎台トンネルを島崎方面に抜け、荒尾橋を渡って右折し約1km地点(東荒尾バス停横)の標識に従って左折(北方向)山林の中。 |
武蔵の絵は水墨画が多く、墨の濃淡の味わいが深く、山水、花鳥、人物画など多数の作品が残っている。書は白楽天の詩がある。彫刻では不動明王が伝えられており、すさまじい迫力ある像である。武蔵の肖像画も、まさに剣聖の面影を髣髴とさせる。(熊本新評社発行の高木盛義著「熊本史跡散歩」より) |
五輪書「地之巻」の「序」最後に、「兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。其儀においては、何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也。」と記されている。兵法に例えていますが、習得しようとする知識や技能は「役に立つかどうか」ではなく、常に何事にも「役立たせよう」という積極的な心構えが大切、またそのように教えなければならいということでしょう。学ぶ者や指導者に対する心構えを説いているものと思いますが、目先の利益ばかりにとらわれている我々への警鐘とも受け取れます。何はともあれ、教訓が随所に、5巻といっても高々数十ページ、一読をおすすめします。ところで、五輪書各巻末の「新免武蔵」という署名を「新しく免許皆伝した」という意味?、謙遜して使った?のかと勘違いしましたが、「新免」は父方の姓とのこと、これも私の無知の証し。しかし、父とは仲が悪かったという武蔵が、死の間際まで筆を執り続けた遺書とも言える「五輪書」に残した「新免武蔵」という署名、興味深いものです。 |
武蔵の画像の写し等の展示 金峰森の駅「みちくさ館」にて 左の武蔵像、以前「自画像」と紹介されていたこともありましたが、自画像ではなく、江戸時代の初期の名工の作で、作風も武蔵のものと異なるとのこと。 峠の茶屋から五百羅漢へ向かう道路沿いにあります。 |
最終更新:2005/04/22