おどま帰ろ帰ろ熊本に帰ろ
恥も外聞もち忘れて
おどんが帰ったちゅて誰がきてくりゅか
益城木原山風ばかり
風じゃござらぬ汽車でござる
汽笛なるなよ思い出す
おどんがこまかときゃ寄田の家で
朝もはよから汽車みてた
汽車は一番汽車八代くだり
乗っていきたいあの汽車に
乗っていったとて八代ザボン
ただの一つも買やきらぬ
|
おどま汽車よか山みてくらそ
山にゃ木もある花もある
花のさかりは四月でござる
四月八日はお釈迦さん
一生一度の釈迦院まいり
晴れのゆもじで山のぼる
山でうちだすひぐれの鐘は
三里四方になりひびく
三里四方はおろかなことよ
花のお江戸までなりひびく
|
高群逸枝(1894〜1964)の「望郷子守歌」で、宇城市松橋町の歌碑(下に紹介)にあります。
望郷子守歌は昭和28年の熊本大水害の報を聞き、ふるさとを思い作ったものとのこと。長くふるさとを離れていた作者、幼少時代の思いや風景を五木の子守歌に模して作ったもののようです。最後の「花のお江戸までなりひびく」、きっとふるさとを離れて何十年経とうと山の鐘の音が耳に残っているのでしょうね。調子よい言葉の繰り返し、思わず口ずさみたくなりそうな詩である。(余談となりますが、逸枝が子供の頃、宇城地区でも「五木の子守唄」が唄われていたとのこと。未だ五木の子守唄が全国的に伝わっていない時期のこと。明治の末に、既に県内広く唄われていたということは、五木の子守唄の発生・伝承経路面からも興味深い話です。)
|
望郷子守歌の歌碑
松橋町の役場庁舎や松橋高校の
裏方向の寄田神社の境内。
高群逸枝は松橋町の名誉町民。
地元青年有志の発案により
昭和37年1月建立 |
高群逸枝は明治27年(1894)現在の宇城市松橋町寄田に生まれます。師範学校を卒業後、大正9年(1920)上京すると同時に「日月の上に」、「放浪者の歌」などの詩集を刊行し、詩人として文壇デビュー。結婚をしたが産児を脳震盪(のうしんとう)で失います。その後、詩作のかたわら、アメリカやヨーロッパの哲学書に深い感銘を受け、「平塚らいてう」等と無産婦人芸術連盟を結成し、婦人問題や運動に情熱を燃やします。その後、昭和6年東京郊外の森の中(夫・憲三が逸枝の為に研究所兼住居として建てた世田谷の「森の家」)にこもり、女性史研究に没頭したそうです。そうして「母系制の研究」、「招婿婚(しょうせいこん)の研究」などの名著を発表し、「女性史学」という新しい分野を切り開きました。夫憲三さんは逸枝さんが研究に没頭できるように家事一切を受け持たれたとのこと。ご夫婦はまさに、我が国で「男女共同参画社会」を実践した先駆者かも知れません。
右上の歌碑(クリックすると大きな画像)は高群逸枝生誕百年を記念して、平成6年10月に松橋中学校生徒会が建立した歌碑です。
うららかに 日のてる春も うらがなし
風のさやげる 雁回山は |
寄田神社境内の「望郷子守歌の歌碑」の横にあります。
「文学散歩」のページとも考えましたが、詩作もさることながら日本に於ける女性史研究や女性解放の先駆者として多大なる業績を残したことを考え、「人物・歴史」のページに取り上げることにしました。高群逸枝は、大正5年(1916)6月26日、下益城郡美里町の「鶴木野橋」という眼鏡橋の崩壊の現場に偶然にも居合わせ、その様子を書き記しています。肥後の石橋を語る貴重な記録の一つではないでしょうか。
|