渕上毛錢(1915-1950)を知ったのは、「柱時計」という詩と出会った時でした。「ぼくが死んでからでも」「鳴るのかい」「苦労するなあ」という言葉が、いつまでも脳裏から離れませんでした。飾り気のない普通の言葉ですが、一語一語が祈りの言葉にも「生命の叫び」に聞こえます。更に「毛錢」という名前(特にモウセンという音)も記憶に残ります。毛氈は毛をフェルト状に加工した布、特に緋毛氈を連想し、雛飾りや茶席の敷物、そこで暖かそうな赤い布が思い浮かびました。実際は「毛氈」でなく「毛錢」、明治時代の貨幣単位の最も小さい「毛」の「錢」という意味でしょうか?何ともユニークなペンネームといった印象でした。 大正4年(1915)1月13日、現在の水俣市陣内(当時は葦北郡水俣町)に生まれ、本名は喬。昭和19年9月、結核性カリエス(結核菌が脊椎に転移し、強い痛みを伴う病気)という病魔に侵され、地元水俣で闘病生活を続けながらの詩作活動。16年間の闘病生活の後、昭和25年3月9日、35歳という短い生涯を終えます。水俣の方だということを知ったのはつい最近。水俣という地に居ながら、日本詩壇に大きな名前を残しています。熊本が生んだ最も偉大な詩人の一人かとも。更には、水俣文化会議を立ち上げるなど、自分の詩作活動に留まることなく、地元水俣の文化活動にも貢献されています。 |
もう少し紹介しましょう。左下の写真は墓前の詩碑「風と光 愛と花 神神の絶ゆることなく」。
「大根抒情」、これも大根と飾り気のない言葉。特に「ひょうげた尻っぽにほっとする」「たまらなさを食べ」という部分が実に「たまりません」。しかし、単純な言葉に反して、全体的な意味は奥の深さ、実に複雑かつ難解な部分があるようです。私自身、作者の心をどれ程くみとれるているのか疑問ですが、詩の解釈は人それぞれでもいいかと思っています。芸術を冒涜する独り善がりの考えでしょうか・・・。
死の前日の3月8日、「貸し借りの片道さえも十万億土」という絶句を残します。十万億土とはこの世から極楽までの間の仏土、一度行ったら絶対に帰って来られないはるか彼方への、遠い旅立ちを暗示したのでしょうか。墓標に「生きた 臥た 書いた」と記されています。「病気だったが、懸命に生き、多くの詩を書くことができた」だから「満足な人生だった」と。短い生涯ですが、精一杯生き抜いた毛錢。そんな彼の生き方に憧れない訳がありません。
本ページ作成にあたっては、荒木精之著「熊本文学ノート」(昭和32年、日本談義社発行)を参考にさせていただきました。この本は春休み(平成19年3月)に本校図書館の倉庫で偶然見つけたもので、毛錢以外にも、不旱、八雲、漱石、滔天、蘆花など、熊本ゆかりの様々な文学者を取り上げてあります。我が「熊本文学散歩」の更なる充実の為にも活用できるものと期待しているところです。後輩たち、よろしく!
最初の2枚の写真は水俣市役所裏手の小高い丘の上にある毛錢の墓(水俣市わらび野)で、一番下の「寝姿」という歌碑は水俣第三中学校(市役所先の水俣川左岸上流600m)のグランド横です。3枚とも本校の渕上先生が撮影(2007/05/19)されたものです。
ところで、「渕上毛錢」という文字ですが、姓が「淵上」と「渕上」、名前は「毛錢」と「毛氈」と「毛銭」、本や資料によって、「渕上毛氈、渕上毛錢、渕上毛銭、淵上毛氈、淵上毛錢、淵上毛銭」の組み合わせは6通り。Yahooで検索すると、それぞれ、1件、5件、19件、7件、48件、127件でした。ちなみにGoogleでは、1件、8件、28件、10件、55件、109件。どれが本当なのでしょうか。それとも、毛錢自身も幾種類もの漢字を使っていたのでしょうか。「渕」は「淵」の略字だから、どちらでもかまわないのかとも。ご存知の方がおられましたら、教えていただければ幸いです。本ページでは、今回の写真掲載を機会に、墓碑に刻まれていた「渕上毛錢」に統一することにしました。(2007/05/25) |
福岡在住のT様より、次のような貴重な情報をいただきました。ありがとうございました。 |
最終更新:2008/03/19