熊本文学散歩


 

文学碑を訪ねて

 熊本市内にも文学碑は数多い。あまり人目につかず、ひっそり建っている幾つかの文学碑を紹介してみます。本校近くの水前寺公園や江津湖周辺の文学碑熊本近代文学館のWEBにも紹介されています!


ふる郷になお身を寄する家ありて
春べを居れば鶯の鳴く
 (宋 不旱)
 この歌碑は水前寺公園内の出水神社境内にある。

 宋不旱(そう ふかん)は明治17年に生まれの歌人で、幻想的な明星派を好まず、古典に親しむ。放浪の歌人でもあったが、故郷熊本にはしばしば帰ってきたようだ。この歌はしみじみと故郷のぬくもりをかみしめている風情があふれ出ている。


 
 熊本大学裏手の立田山登り口、泰勝寺入り口、熊本が生んだプロレタリア文学者「徳永直(とくなが すなお)」の碑がある。「私たちはもっと労働について語らなければならない。労働のもつ内容は、現在語られている多くの恋愛よりも、インテリゲンチャのある種の悩みよりも、ないしは消費生活の絢爛さよりも、はるかに豊富で、人類を益するものである」−−−最初の記憶−−−

 徳永直は、明治32年、現在の熊本市花園町に生まれ、黒髪へ転居。幼い頃からの極貧生活、行商や荷馬車稼業の手伝いなどの労働のあけくれ、11歳から文選工、米屋の丁稚などの職を転々とし、23歳で上京。27歳のおりの、共同印刷争議の体験をもとに、30歳で発表した「太陽のない町」によって文学の道へ。庶民の生活の痛みを赤裸々に著した作品群を数多く発表し続けた。


 熊本は、山口県生まれのさすらいの俳人「種田山頭火(たねだ さんとうか)」の生き方や創作活動にとって、最も重要な拠点であった。

まったく 雲がない 傘をぬぎ

 山頭火自筆の句碑が、野田町の大慈禅寺の境内にある。かつて曹洞宗法皇派の本山とされた由緒ある大慈禅寺も、明治以降は荒れ続け、見る影もない状態であったという。山頭火が知る頃の大慈禅寺は、より山頭火らしい寺(?)だったかと想像できる。

大慈禅寺
川尻町緑川堤防横

禅宗の寺で
座禅や精進料理の体験も

 山頭火の句をもう一つ。彼が堂守をしていた植木町の「味取(みとり)観音堂」の境内に句碑があります。

松はみな 枝垂れて 南無観世音

 故郷を離れ、酒を愛し、自由奔放で平易な言葉を使った作風に、没後70年近くになる今なおファンは増え続けている。


 
秋はふみ 吾に天下の 志
 
 夏目漱石の句碑は多い。漱石の俳句の大半が熊本での5年間で作られたとのことで、平成8年(1995)、来熊100年を記念して、金望山周辺をはじめ各地に建てられている。この句碑は、熊本大学の黒髪キャンパスの中に、彼の銅像とともにある。
 

 
  よし野にて 桜見せうぞ 檜笠

 松尾芭蕉の俳句を刻んだ笠塚。本校の東方400mほどの国分寺の境内にひっそりと。この句碑について、学校に問い合わせの電話があったというので、急遽写真を撮りに。芭蕉の句碑は多いが、単なる句碑でなく、俳句愛好者の方々が建立した供養碑とか。芭蕉塚は全国に2000基を超えるとも。
 
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会
最終更新:2006/08/25

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