明治時代、日本ではまだ、ハンセン(らい)病対策が貧弱(明治42年になって初めて国立療養所設置)で、多くの患者の方が悲惨な生活を強いられていました。明治23年(1890)、キリスト教布教の為に来熊したリデルは、本妙寺の参道に集まっていたハンセン病患者の悲惨な姿を目撃します。このことが、彼女にハンセン病患者救済への道を歩かせるきっかけとなります。 ハンセン病患者の身体的・精神的な救済を神様に与えられた天職と考えた彼女は、母国イギリスをはじめ、日本国内の有志等へも働きかけ、明治28年(1895)に設立したのが回春病院です。その後も救済を訴え続け、各地の国立療養所が生まれる礎となります。生涯を救済活動に捧げ、昭和7年(1932)に熊本で亡くなります。日本政府も生前に、その功績に対し藍綬褒章を贈っています。 エダ・ライトはハンナ・リデルの姪(めい)にあたります。明治29年に来日し、日本各地で伝道活動の傍ら英語の指導などをおこなっていましたが、大正12年(1923)、病身のリデルを助けるため、熊本に移り住み、回春病院でハンセン病患者の救護活動に従事します。リデルが亡くなった後、回春病院の経営を引き継ぎ、叔母同様に、これを神が与えられた仕事として、一生を救護事業に専念します。戦時中、日英関係悪化のため離日(強制的な国外退去措置のため)し、オーストラリアへ移りますが、昭和23年(1948)に再び熊本に帰り、昭和25年(1950)に80歳で亡くなります。没後に勲4等瑞宝章が贈られています。 故国イギリスから遠く離れた日本で、救らい事業のために一生を捧げたお二人に心より敬意を表します。日本は明治以来、世界の様々な人々に助けられてきました。世界には今尚戦争や災害、病気等で苦しんでいる人々も多くいます。私達も世界中の困っている人々のために「何か出来ることはないのか?」、真剣に考えてみたいと思います。また、戦争が始まった途端、年老いたライトは、敵国人として国外退去させられます。戦争の影響の大きさを知ることにもなりました。 ハンナ・リデルとエダ・ライト両女史の功績を末永く伝える為の記念館が、立田山登り口近く(熊本大学黒髪北キャンパス裏手)の回春病院の跡地にある「リデル・ライト記念老人ホーム」内にあります。周辺の熊本大学や小峰墓地あたりは小泉八雲、夏目漱石、徳永直、宮部鼎蔵などの関連物もいろいろあります。文化遺跡や自然豊かな立田山周辺をゆっくり散策してみませんか。 |
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無知ほど恐ろしいものはない!真実を知ることは人間の権利ですが、義務でもあり、責任でもあります。様々な差別の根源ともなるもので、気をつけなければ。ハンセン病は感染症で、遺伝ではありません。感染といっても「ライ菌」の感染力はとても弱く、療養所で働いていた職員で感染した人はいないことからも明らか。また不治の病でもなく、治療法が確立し、外来でも直すことができます。過去、ハンセン病に対する無知のため、ハンセン病患者・元患者さんの人権を侵害することも度々。ホテルの宿泊拒否事件もその一例かと。ハンセン病に限らず、知らないことが罪にも!(最終更新:2003/12/10) |
ハンナ・リデル女史の献身的な活動に感動し、ハンセン病根絶に一生を捧げることになった熊本の医師「宮崎松記博士」を紹介するページや「ハンセン病に関する主な出来事」をまとめたページも。