肥後勤王党の総師「宮部鼎蔵」は文政3年(1820)4月、益城郡田代村(現上益城郡御船町上野)に生まれ、この地に生家跡があります。産湯に使ったという井戸は見つけることができませんでした。 県道沿いで、上野小学校の向かい側、現在は公民館となっております。 |
山鹿流の軍学を修め、30才で肥後藩の軍学師範となります。その後、林桜園に師事し、国学古典を研究を深めます。吉田松陰とも仲がよく、諸国の志士と交友を深め、尊皇攘夷の信念を更に深くしていきます。
文久3年(1861)、全国諸藩から選抜された3000人による勤王党親兵が組織されるや、総督「三条公」の下で「総監」に任じられます。
しかし、元治元年(1864)6月5日、同士20数人と京都三条の池田屋で会談中、会津藩や新撰組に襲われて自決、45才の短い一生を終えます。そのわずか5年後、明治維新を迎えることになります。
「鼎春園」は、「宮部鼎蔵」とその弟「春蔵」を記念して、地元の人々によって大正2年(1913)に作られた公園です。阿蘇外輪山を望むいい場所です。生家の裏側にあたります。所在地は、御船町上野口ノ坪2214-2で、名前も2人の名を1字ずつとって付けられています。公園の中央には高さ5mほどの巨大な顕彰碑、顕彰碑の左右には、宮部兄弟の歌碑が建っています。 | |
顕彰碑の左側に、鼎蔵の歌碑があります。 いざ子供馬に鞍おけ九重の 御階(みはし)の桜散らぬそのまに この歌は、孝明天皇の「矛とりてまもれ宮人九重の御階の桜そよぐなり」に応え、鼎蔵自身の決意を述べたものとのことです。 | |
顕彰碑の右側にあるのが、弟春蔵の歌碑です。 故里の花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に羽をやうつらむ 文久2年(1862)春、兄の後を追い、肥後藩を脱藩し京都に上ったとき家に送った歌。その後、勤皇党として活躍。元治元年(1864)7月、幕府軍と戦いに破れ天王山で自決。26才の若さでした。 |
生家前の県道を数百mほど進み、右側に下った渓谷に、熊本の石橋の中では、最も長い部類の眼鏡橋「八勢橋」があり、付近は水と緑のすばらしい憩いの場所です。また、生家前の県道を阿蘇の外輪山のほうへ行けば、草原で有名な大矢野原で、草スキーやキャンプ、山菜採りの名所となっております。(上の写真は2002/09/08
撮影)
左は宮部家の墓で、中央が鼎蔵の墓碑 (写真は2002/05/06 撮影) 熊本市黒髪の小峰墓地にあります。 熊本大学の裏、立田山の登り口にあたりすぐそばに、小泉八雲がこよなく愛した「鼻欠け地蔵」も! 周囲には、リデル・ライト記念館や徳永直の文学碑、大学内にも、夏目漱石や小泉八雲の像や碑もあり立田山自然公園を含めた手軽な森林浴・散歩コースです。 |