宮崎 松記みやざき まつき


 

日奈久小学校にあるレリーフ 明治33年(1900)1月10日、八代市日奈久町の井上家の3男として生まれ、その後宮崎家の養子となり宮崎姓に。第五高等学校、京都帝国大学医学部卒業。第五高等学校時代、学校の裏にあった回春病院で、ハンセン病患者の治療に献身的に働いていたハンナ・リデル女史の姿に感動、ハンセン病の診療に一生を捧げることを決意。ハンセン病患者救済のためインドへ渡り、インドのハンセン病を根絶するために尽くされ、アジア救ライの父とも、日本のシュバイツァーとも呼ばれた方です。

(左上の写真は、宮崎博士の母校日奈久小学校の記念碑のレリーフで、下に記念碑の全体写真があります。この記念碑は昭和46年、博士の講演を聞いて感動した当時の生徒たちが卒業記念として校庭に残したもの。正面の「善意と友愛」の文字は、インドの救ライセンターの礎石に刻まれている「アジア救ライ協会インドセンターは日本国民のインド国民に対する善意と友愛の精神によって建設された」という当時のネール首相の言葉からとったもの。裏面には当時の甲斐校長先生の「救ライの道往きゆきてつひに止む砂の嵐の埋めしみかばね」という短歌が刻まれています。撮影:2004/01/04)


  • 昭和9年(1934)5月、県立九州ライ療養所所長(昭和16年、国立療養所菊池恵楓園と改称)就任。
  • 昭和33年(1958)9月、恵楓園園長を辞任。その後、インドでのハンセン病診療活動に尽力。
  • 唱和34年(1959)5月、ライオンズクラブの事業活動の一環として、インドに渡り、半年間ライ医療の実態を視察、インド政府あてに報告書をまとめ、ネール首相からも協力を要請(昭和35年6月)されます。その後何度もインドを訪問し、救済事業を推進。
  • 昭和41年(1966)7月、第1回内閣総理大臣顕彰を受賞。
  • 昭和42年(1967)1月、インドのアグラに「アジア救らい協会インドセンター」が完成。
  • 昭和47年(1972)6月14日、インドのニューデリーでの飛行機事故により死亡。

宮崎博士の記念碑(日奈久小学校) 宮崎博士は、日本国内のハンセン病患者の多くが完治したことを確認し、国内での医療活動を終え、多くの患者が援助の手を待っている海外の救済事業に全力を注ぐことに。明治以来、様々な外国人にお世話になってきた我が国のハンセン病救済事業です。今度は日本が恩返しをする番。そんな気持ちもあったものとも。宮崎博士は、日本人みんなが協力して果たさなければならない課題に率先して取り組まれたのです。

 ところで、宮崎博士を中心とする救済事業を実施するには膨大な経費が必要でした。経費の大半が国内の多くの方々からの善意の寄付によって賄われたということです。ライオンズクラブを中心に、政財界、全国の数多くの小中学生たちの協力があったそうです。一人の偉人の陰には多数の善意の奉仕者がいることも知りました。自分自身が積極的には活動できなくても、何らかの方法で協力することができるということも分かりました。

 宮崎博士が亡くなられて30年以上経っています。私自身、下記の本を読むまで宮崎博士の事を知りませんでした。以前はテレビや新聞等でよく紹介されていたということです。博士を始めとする多くの方々の偉大な活動を風化させる訳にはいきません。それが本ページ発信理由の一つです。郷土熊本に、こんな素晴らしい方が居られた事を誇りに感じるとともに、私自身も「他人や他国のために、何ができるか」を考えていきたいものです。(2004/01/06)
 

 本ページ作成にあたっては、講談社発行の宮崎松記著「ぼだいじゅの木陰で」、宮崎好信編集・発行の宮崎松記没後20年記念「インドのおじいちゃんありがとう」等を参考にさせていただきました。(最終更新:2004/01/13)

文責:熊本国府高等学校パソコン同好会

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