熊本の歴史

目次 原始・古代 中世 近世 近代

原始・古代

竪穴式住居 県内各地に発見された遺跡(いせき)からみて、この地には1万5千年ぐらい前から人々が住みついていたと堆定(すいてい)されます。その後、紀元前7,000年頃から前2世紀頃までの6〜7000年にわたる縄文(じょうもん)時代の遺跡(いせき)は、有明海や不知火(しらぬい)海にそそぐ河川の流域や天草島など県下各地の約800ヵ所にわたって発見されています。

 紀元前2〜3世紀になると弥生の農耕(のうこう)文化が起こり、その遺跡(いせき)とともに玉名郡天水町ではわが国最古の鉄斧(おの)も発掘(はっくつ)され、金属器が伝来したことを物語っています。古墳(こふん)時代に入ると地南町、宇土半島に古式の古墳群が分布するほか、阿蘇谷、菊水町、鹿央町などに前方後円填(ぜんぽうこうえんふん)を中心とした古填群が発展し、6〜7世妃には菊池川流域に日本有数の装飾古墳(そうしょくこふん)文化が栄えます。この頃になると県内に火国、阿蘇国、天草国などの小国が出来、やがて火の国(または肥の国)、肥後国へと統一されました。

 大化改新(たいかのかいしん)の国郡制施行(しこう)によって肥後国にも国府がおかれ、太宰府の管轄(かんかつ)下に国司が政治を統轄(とうかつ)するようになりました。

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中世

 平安時代に入ると、肥後国には14の郡ができ、その中に総計99の郷がありました。また平安中期以降、荘園(しょうえん)全盛の時代になると県下にも阿蘇荘、鹿子木荘、山鹿荘など数十にのぼる大荘園が出来、平安末期にはこれらの荘園の中から武士団が台頭(たいとう)してきます。

 やがて鎌倉幕府(かまくらばくふ)によって統一がなされると武士たちは地頭(じとう)や守護(しゅご)に任命されて、それぞれの荘園において勢力を伸ばしていきました。その中には阿蘇氏や菊池氏などのように土着(どちゃく)の豪族(ごうぞく)のほか、人吉の相良(さがら)氏や玉名の小代氏のように幕府成立後、遠く他の地方から赴任してきた一団もありました。

 南北朝の頃から菊池氏の勢力が強まり、阿蘇、名和、相良などの諸氏がそれに続いていましたが、室町末期期、菊池氏が衰えると、一時豊後(ぶんご)の大友氏や肥前の竜造寺氏、薩摩(さつま)の島津氏の勢力が伸び、肥後は戦国三大名の争奪(そうだつ)の地となりました。以降、豊臣秀吉の九州平定まで島津氏の勢力下におかれていました。

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近世

 天正15年(1587)、秀吉は佐々成政を肥後の国主に任じましたが、国衆一揆(こくしゅういっき)が起こり成政は失脚(しっきゃく)。次いで県北及び葦北(あしきた)の9郡25万石を加藤清正が、県南の3郡24万石を小西行長が支配することになりました。球磨(くま)は従来通り相良氏が支配しましたが、天草は天草五人衆の支配から小西領、加藤領、唐津城主寺沢領とめまぐるしく変わり、以降幾多の変遷を経ながら明治維新(めいじいしん)まで天領(てんりょう)となりました。

 清正の子忠広の時改易(かいえき)された加藤氏のあとを受けて、寛永9年(1632)小倉より細川忠利が肥後54万石を領して入国。政治の組織制度に大きな改革を行うなど、明治維新まで細川氏が統治しました。なかでも地方行政の根幹(こんかん)をなす「手永(てなが)制度」は特筆(とくひつ)すべきものです。これは郡と村との中間にあたる行政区画で、52手永に編成、それぞれに惣庄屋(そうしょうや)がおり20〜30ヶ村を一括(いっかつ)支配していました。

 幕末(ばくまつ)近くになると藩(はん)の財政(ざいせい)は次第に苦しくなり、各種の政治改革(せいじかいかく)や植産興業(しょくさんこうぎょう)につとめましたが、まもなく幕藩(ばくはん)体制は崩壊(ほうかい)しました。

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近代

西南の役の激戦 明治2年(1869)、肥後藩主細川韶邦の版籍奉還(はんせきほうかん)後、肥後藩は熊本藩と改められ、藩主は知藩事(ちはんじ)に任命きれました。同4年の廃藩置県(はいはんちけん)によって熊本藩は熊本県に、人吉藩は人吉県となり、天草は一時長崎県に編入。その後、熊本県と八代県が置かれ、同6年合併して白川県となり、この時はしめて肥後国全体を管轄(かんかつ)することになったのです。同9年熊本県に改名。同10年には政府の欧化政策(おうかせいさく)に憤った士族(しぞく)たちの反乱・神風連(しんぷうれん)の変が起こり、さらに西南の役の激戦(げきせん)地になるなど新時代誕生の陣痛(じんつう)ともいうべき混乱の時代を迎えます。

 この時期を過ぎると県政は保守的な学校派(国権党)と改進党の激しい対立が続き、当時熊本は政争県といわれ、昭和初期の民政党と政友合の時代まで続けられました。一方、両者がそれぞれ設立した教育機関の競争も激しく、教育県とも呼はれていました。

 その後数多の変革が行われ、地方制度は徐々に地方の自治の方向に進んでいきました。明治22年に市制・町村制が施行されるやいち早く熊本市が誕生、同29年には郡の統合が行われ、昭和28年公布の町村合併促進法に基づいて市町村の合併が進行。平成3年2月には飽託(ほうたく)郡の4町が熊本市へ合伴(がっぺい)、更には平成15年以降、市町村の合併の特例に関する法律によって、更に合併が進み、平成17年度までに、あさぎり、上天草、美里、芦北、宇城、山鹿、山都、阿蘇、南阿蘇、菊池、八代、氷川、玉名、合志、和水、天草の新しい市町村が誕生、平成20年には47市町村となりました。

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以上、熊本県観光振興課の「修学旅行企画資料」を参考に 制作:熊本国府高等学校パソコン同好会

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