肥後の国の「国府」

 

 「熊本国府高等学校」という校名は、本校近辺にあったという肥後の国の「国府」に由来します。奈良・平安時代、律令制における地方政治の中心が「国府」です。そこで、肥後の国の国府について、調べてみることにしました。当時を伝える記録は少なく、正確な場所等、戦前まではほとんど分かってはいなかったようです。しかし、戦後になって、発掘調査などが進み、少しずつ解明されてきているとのことです。

現在の本校と当時の国府や国分寺の位置関係  奈良から平安時代の初め、現在の本校(熊本市国府2丁目15-1)を挟むようにして国府(託麻国府)と国分寺がありました。ちなみに、国分寺の北端部は本校発祥の敷地内。(左の地図は大まかな位置関係を示すもので、縮尺等正確ではありません)

 本校の図書館にあった山川出版発行「熊本県の歴史(1999年)」を開いてみました。

 肥後国の国府の所在地について、和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう、和名抄、平安中期の漢和辞書、934年頃)では「益城郡」、伊呂波字類抄(いろはじるいしょう、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての字書)では「飽田郡」、拾芥抄(しゅうがいしょう、南北朝時代の百科便覧)では「益城」と「飽田」の2郡が記されている。また、平安初期の日本霊異記では、宝亀年間(770~781)頃の説話として「託麻国分寺」が記載されており、奈良時代の国府は託麻郡内と考えられている。託麻国府跡は現在の「熊本市国府2丁目(現在の本校所在地)~4丁目と国府本町一帯」と想定されている。発掘調査の結果、9世紀中頃に洪水で破壊されたと考えられ、益城国府への移転原因という説が有力。日本三代実録の貞観11年(869)9月14日条によると
是の日 肥後国に大風雨あり 瓦を飛ばし樹を抜き 官舎民居転倒する者多く 人畜圧死勝げて計うべからず 湖水漲り溢れ 六郡漂没す 水退之後 官物を博摭するに 十の五六を失う 山より海に至る その間の田園数百里 陥て海となる
とあって、肥後国内に大変な被害をだしたことがわかる。(以上、「熊本県の歴史」より。かっこ内は本ページ作成者の注釈)

 今も低地で、豪雨が30分も続けば水が溢れる(直ぐに退きますが)本校の校門前の井手です。上記「湖水漲り溢れ」の湖水とは江津湖でしょう。現在の江津湖も、大雨の時は中の島も水に沈み、まさに大海のようになります。当時の条里は本校付近より更に低地の江津湖下流の加勢川沿いまで延びていたとのことです。この洪水の後、国府はここ託麻(本校周辺)から移転します。しかし、移転先にも2説あります。一つは飽田国府(現在の熊本駅近くの二本木付近)で、もう一つが益城国府(下益城郡城南町)です。ただ、飽田国府とすれば、託麻国府と同じ低地ということで、益城国府への移転というのが有力のようです。しかし、益城国府については存在した期間が短く、確かな史料も少ないようです。更に推定される場所も3箇所(下に地図)あります。益城国府の後が飽田国府と言われていますが、益城国府の後が託麻国府との説も。益城国府で有力なのは「陣内」と「宮地」で、肥後の国の国府は「陣内、託麻、宮地、飽田」の順に移転していったという説もあります。何れの場合も、最後(平安末期~)は飽田国府で間違いないようです。飽田国府時代には、檜垣ひがきと肥後国の国司「清原元輔もとすけ(在熊期間:986~990年)」との交遊伝説も残っています。

 託麻、益城、飽田の3国府の推定地(左下)と、本校周辺の託麻国府の概略図(右下)を紹介します。これらは大まかな位置関係を示すものであって、縮尺等正確ではないことをお断りしておきます。

肥後国府の位置 託麻国府概略図
肥後国府の位置
(駅路は当時の幹線道路)
託麻国府概略図
(道路は現在のもの)
 

 上の地図にある「駅路うまやじ」とは、当時の官道(国道)で、30里(約16km、当時の1里は約540m)毎にうまやが設置されています。駅には、駅使うまやづかい(朝廷の使者)等に食料や人馬を提供する役割の、駅長うまやおさ駅子えきしが配置されていました。熊本付近の駅路は立田山の西すそを通り、子飼付近(蚕養駅)で白川を渡り、学園大学付近(当時の託麻郡役所)、本校付近(国府と国分寺の間)を通って真っ直ぐ城南町(球磨駅)へ通じています。道路幅も6~12m(15mとも)あり、駅制など古代日本の道路交通システムは、単に道路を造っただけでなく運用システムなど、現代の水準を上回る部分もあったのではないかと驚いているところです。ちなみに、養蚕駅や球磨駅の名前の名残りが子飼(熊本市の地名)や隈庄(城南町の地名)かとも。

 本校周辺に、当時の面影をしのぶものはないかと、右上の託麻国府概略図にある地域を歩いてみました。今でも、築地(土塀)跡である「土塁」が残っているかと思ったのですが、託麻国府概略図の北東角(右上)の土塁跡(?)らしきものが一部残っているだけで、東殿の位置にあたる「三宝大高神」のほかに、当時の国府の雰囲気を残す地形は見当たりません。この一角、今では住宅がぎっしりと立ち並んでいます。1000年の時を過ごす間に、田んぼになったり、建物が建ったりして、土塁等も取り崩されてしまったのでしょうか。現在の地図等を見ても、当時の大きな官道の跡と思われるものは見つかりません。もっとゆっくりと歩けば、1000年の時を伝える何かが見つかる可能性も、今後に期待します。本校周辺に1000年前の歴史的ロマンが埋まっていることは確かです。

三宝大高神 白山神社
三宝大高神
白山神社バス停南側アパート横の路地を抜けると鳥居と小さな境内、本殿前にも鳥居(写真)。この辺りが託麻国府「東殿」。
白山神社
こちらは熊本でも有名な神社で、境内も広く、ゆったりと散策できる。明治10年前後の国府村の地図には「国府神社」とある。
国分寺 熊野神社
国分寺
現在の国分寺は、川尻の大慈禅寺が享禄年間(1528~1532年)に禅寺として再興したお寺とのこと。
熊野神社
写真の石が国分寺の七重の塔「礎石」。元々これより西23mの地点にあったのだが、明治時代に移設。
 肥後国府の所在地及び移転に関する諸説
七所宮、撮影:07/04/15 陣内廃寺跡、撮影:07/04/15
七所宮しちしょぐう
益城国府(宮地説)の推定地付近。古代の駅路はこの辺りで曲折、現在の道も同じような折れ方、駅路の幻影を見る思い。
陣内廃寺じんないはいじ」跡
益城国府(陣内説)の推定地はこの北側。県内最古の寺といわれ、多量の焼け瓦や炭化物が出土。写真は塔の礎石。

 ちなみに、当時の託麻と飽田の郡境は白川で、飽田国府は白川のほとり。白川は阿蘇の火山灰(ヨナ)を運んでくるため、天井川(川底が周囲の土地より高い)となっており、常に洪水の危険性が。託麻国府も江津湖に隣接する低地。何故そんな場所に?しかし、全国の国府も低地にあることが多いとのこと。国府の立地条件として水運の便を重視したようです。江津湖から加勢川、有明海と続く水路は物資の集散に適していたことでしょう。
 ところで、江津湖の「江」は「こう」とも読みます。「国府」も「こう」と読む場合も(他県の地名にも)あります。そんな訳で「江津」は「国府津」の転化という説も。ということは、「江津」とは「国府の港」という意味。上の地図の国府東殿跡にある三宝大高神の「高」も「こう」すなわち「国府」につながります。
 なお、本校の創立の地は電車通りの「水前寺公園前」電停付近(上の地図で国分寺跡の北側部分)ですが、創立当時の地図を見ると「門前屋敷」や「寺之前」の地名が残っています。託麻国府時代の「国分寺」の名残りかと思います。国府時代を思い起こす風景は目にすることはできませんが、国府や国分寺の余韻が伝わってくる本校周辺かと思います。更に調べていけば、何か新たな発見があるかも知れませんね。

 本ページ作成にあたっては、前述の山川出版「熊本県の歴史」のほかに、熊本県の歴史(S47年、山川出版)、新熊本の歴史(S54年、熊本日日新聞社)、新宇城学(H元年、熊本日日新聞社)、新熊飽学(H2年、熊本日日新聞社)、熊本の歴史叢書(H15年、熊本日日新聞社)、木下良先生のお話などを参考にしました。国府の移転順序や古代道路の問題、興味を抱きます。今後も本校周辺の「託麻国府」を中心に、新たな情報を入手次第、ここに紹介していきたいと考えています。なお、素人考えで勝手な推測を交えていますので間違いもあると思います。お気付きの点等、アドバイスいただければ幸いです。(発信:2007/03/13)

最終更新:2008/09/09

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