校名の由来(熊本 |
ここはその昔、政治・経済・文化の中心地でした。 当時のあらゆる情報は国府に集まり、そしてここから熊本の各地に広まり、新しい文化の華を咲かせていきました。 「 |
当時の本校近辺の想像図 金望山に沈む夕日に映える美しい風景 |
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本校の東方200m程(直線距離)の所に熊野神社という小さな神社があります。その境内に大きな石が。それが奈良時代の国分寺の七重の塔の |
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当時の国分寺にあった 七重の塔の「礎石」 撮影:2004/07/23 |
奈良・天平の時代、各国に国分寺と国分尼寺がおかれ、都にはその総本山として、東大寺、法華寺が建てられます。肥後の国の国分寺も国府の東に造られ、壮大な |
「肥後の国」の国府は、益城国府(下益城郡城南町)、託麻国府(熊本市国府、本校付近)、飽田国府(熊本市二本木、熊本駅近く)と移動しているとのことですが、その理由や時期など、まだ不明な点もたくさんあるそうです。国府も二本木も共に低地で、当時は水害の心配は無かったのでしょうか、もっと詳しく調べてみたいものですね。 |