熊本では加藤清正のことを「せいしょこさん」と呼ぶ。「清正公」を「せいしょこ」と音読みし、戦国の武将加藤清正のことを更に親しみを込め、「さん」付けして、そう呼ぶのである。「武者返し」と呼ばれる独特な石垣で有名な熊本城を築いた安土桃山から江戸初期の熊本の領主。単なる領主が400年を経た今でも、「せいしょこさん」と親しみを込めて呼ぶのには訳がある。名城「熊本城」を築いただけではなく、県内至る所で治水・利水事業を行い、子々孫々まで熊本に貢献されたことへの感謝の気持ちの表れとのこと。(写真は熊本城前の銅像、他にも菩提寺本妙寺の裏山にも)
熊本市の中心部を流れる白川は、阿蘇のカルデラに降った雨を集めて有明海へ注ぐ。阿蘇の火山灰(熊本ではヨナという)を運んでくるため、平坦部では川底が高くなってしまい、大きく蛇行している部分(右の地図、緑色の旧白川が当時の流れ)も多く、増水時は実にやっかいな川で、洪水の危険性があった。城下を流れる白川改修は急務。熊本城築城後に改修され、直線化された。このほかにも、単なる治水に終わることなく、田畑の灌漑のための堰(せき)や井手(一の井出など今も残る)を築き、白川流域だけでも灌漑面積は3500ヘクタール以上にもなる。 県央を東西に流れる緑川は、源流を九州山地に発し、熊本平野へ入り、有明海に注ぐ。途中多くの支流が合流し、豊かな水量は灌漑用水として大きな役割を果たしていたが、一端増水すれば大洪水に見舞われていた。そのため下流域の大半は湿地帯として不毛の地であった。そこに次々と清正流の堤防を築き、田畑を増設し、大穀倉地帯と変えていったのである。江津堤(とも)や鵜の瀬堰(うのせぜき)などをはじめとする清正堤や堰の数々である。 県北の菊池川は、菊池玉名平野の穀倉地帯を流れる恵みの川である。しかし、有明海の海水が逆流し、高潮や満潮時は田畑に塩水が入り込むことも度々だった。そこに次々と堰を築き、干潟の水田化、菊池川本流の掘り変えも含めた菊池川流域の大々的な改修工事に着手したのである。この結果、900ヘクタール以上の新地が造成されたとの記録もある。 県南の八代平野を形成する球磨川、河口一帯は幾筋もの流れが走る湿地帯であり、繰り返される氾濫の被害も大きかった。ここにも大堰を造った。熊本城の石垣の技術を用いた400mに及ぶ石堰である。その下流には八代を洪水から守る萩原堤、はぜ塘、前川堤などがある。そこには石刎(いしばね)と呼ばれる独特の工夫も施してあり、増水した急流が川岸の堤を破壊しないような仕組みである。現在の八代平野はおよそ3分の2が干拓地が占めているが、清正公は八代海干拓の先駆けとなったのである。 他にも宇土、荒尾、長洲なども含め、県内至るところに清正公が築いたと言われている堤防や堰、溜池、新地などがある。本妙寺のほかにも、清正公を祭る神社も熊本城内にある加藤神社をはじめ、県内に22社も残っている。天正16年(1588)5月から慶長16年(1611)6月に死去するまで、高々23年間の熊本統治ではあったが、その功績は大きく、県民に末永く慕われている清正公である。 肥後国の石高は54万石、これは天正16年(1588)国衆一機後の太閤検地高、清正公は各種の灌漑・治水工事を行った慶長13年(1608)の総検地では75万石に増えている。寛永9年(1632)、細川氏は54万石を拝領して入国するが、実質石高は更にアップしていたと推察される。 |
豊臣秀吉の命とは言え、文禄元年(1592)と慶長元年(1596)の2度の朝鮮半島への出兵という、歴史上のマイナスイメージもありますが、熊本人にとっては「治水・利水の土木の神様」的な人物です。領地支配の第一は国防、そこで熊本城、第二は富国、つまり米の増産という見方も出来ます。統治者として領地の国力を大きくするという目的ではあったのでしょうが、これほどまでに永く慕われている統治者もめずらしいのではないでしょうか。「加藤家の後に熊本を統治することになった細川家がうまく利用したんだ!」という話も届きました。真偽のほどは?いろいろ考えることができます。何でも一面からだけでなく、様々な角度から眺めてみることが大切なんですね。 私たちの別ページ「肥後の石橋」でも述べていますが、肥後の石工のルーツの一つは、清正が熊本城を築城する時に呼び寄せた近江国(現在の滋賀県)滋賀郡坂本村の石工( |