横井小楠は、幕末の政治家・思想家で、文化6年(1809)8月13日に、肥後藩士横井時直の次男として、内坪井(現熊本市坪井)に生まれました。名は「時存(ときあり)」、号を「小楠」、「沼山(しょうざん)」、通称「平四郎」といいます。 (写真は、小楠公園(下記参照)の銅像) |
肥後藩の藩校である「時習館」に学びましたが、居寮長に抜擢されたり、江戸留学も命じられた秀才でした。後に、実学党グループをつくって藩学に対抗したり、私塾「小楠堂」を開き、藩政改革派を育てます。
「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」と言います。当時の熊本(肥後藩)には、実学党に対して、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」などのグループがあり、幕末から明治にかけて、政争を繰り返していました。
小楠の考え方は保守的な考えの強かった地元熊本では受け入れてもらえず、福井藩の改革とか、幕政改革などに大きな功績を残します。例えば、天保14年(1843)に肥後藩の藩政改革のために書いた「時務策」で、藩の経済行政を批判したという理由で、肥後藩には受け入れられませんでした。改革というのは現状を変えることだから、それを藩政批判ととられたのですね。悲しいことです。
時務策の要点
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熊本での冷遇とは反対に、嘉永5年(1852)以来、招請により4度も福井を訪れています。福井藩の明道館校長にも任ぜられ、松平春嶽の政治顧問としても重視され、藩政改革にあたります。文久2年(1862)、松平春岳が幕府政治総裁となり、小楠も松平春岳の要望に応え「国是7カ条」(後述)を作成するなどし、幕政改革にも参画しております。
明治元年(1868)には上京し、維新政府の参与に任ぜられ、活躍が期待されましたが、明治2年(1869)正月5日、京都で攘夷論者の凶刃に倒れました。日本のために実に不幸な出来事でした。
地元熊本で目立ったものは、明治3年(1870)小楠と考え方を同じくする細川護久が知事となり、実学党のメンバーを重用し、税金をやすくしたり、藩役人を減らしたり、藩校の時習館や再春館を廃止し、洋学校や医学校を建てています。今で言う「行財政改革」ですね。先見の目の高さを感じます。しかし、急激な改革のため反感をかい、3年後には新知事(安岡良亮)に替わり、実学党のメンバーも中枢部から追われることになります。
文久2年(1862)、幕政改革のため、次のような「国是7カ条」というものをまとめています。
国是7カ条
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数百年の幕府体制を揺るがす大幅な改革であるとともに、植民地化を迫る欧米諸国からの日本防衛問題まで含むものでした。幕末から維新にかけての大きな指針となったようです。
熊本市の東はずれ、秋津町沼山津にある横井小楠の旧居に隣接して、資料館もあります。小楠は安政2年(1855)から明治元年(1868)維新政府に招かれて上京するまで、福井藩に招かれていた間を除く前後8年をここで暮らしました。その間、塾を構えて門弟の指導にあたり、幕末の志士、板本竜馬らも訪ねて来ています。 昔のままの姿を残す座敷を中心に、昭和57年(1982)記念館とともに復元され、敷地内に建てられた記念館(左写真の奥の白壁の建物)には、京都で暗殺されたとき持っていた短刀や、改革に関する意見書など、小楠ゆかりの資料が多数展示されています。 |
ここから眺める景観が四季折々素晴らしいことから、「四時軒」の名が付いたとされています。左端の写真は南側の秋津川の対岸堤防より撮影したもので、手前の平屋建てが四時軒(中央写真)で、後ろの白壁の2階建てが横井小楠記念館です。堤防の手前は田園風景が広がり、阿蘇の外輪山や飯田山(別名益城富士)も一望できます。
横井小楠記念館:電話 096ー368ー6158 |
四時軒から北東方向へ10分ほど歩いた益城街道(県道旧熊本高森線、市電の延長線方向)沿い、沼山津神社のすぐ先の向かい側(右手:南側)に小楠公園があります。ここに、横井小楠の墓(本当は髪塚)や銅像、頌徳碑(しょうとくひ 小楠の徳をたたえる碑、碑文は徳富蘇峰)などがあります。なお、本当の墓は京都「南禅寺・天授庵」にあります。京都東山護国神社の熊本招魂社内に「肥後横井小楠之神霊」石碑があり、京都寺町の下御霊神社近くには「横井小楠殉節地」の石碑もあります。(徳永様からのメール等より) |
四時軒と小楠公園をまわり、秋津川の堤防を下って江津湖まで歩いてみませんか。すばらしい自然散策コースです。江津湖のほとりで川魚料理でも食べ、午後からは水前寺公園や動植物園へ足をのばすのもいいですね。
本文中の名前や塾名に誤字があり、横井小楠研究家の徳永様よりメールでお知らせいただきましたので、訂正させていただきました。ありがとうございました。(2002/08/19)