蘇った石橋!(木鷺野橋の復元)その4

尾上一哉氏の感想と意見

 尾上さんは、木鷺野橋移転復元工事のあらましを、50ページの記録冊子に書き記しておられます。その中で、この工事に携わって気づかれた、注目すべき疑問や感想を述べておられますので、紹介させていただきます。(現代版肥後の石工「尾上さん」のページへ

疑問
 私見、なおかつ勘によるところではあるが、石橋のアーチは単曲線が強度的に最も理想的なのではないだろうか。上からかかる力だけではなく、洪水時に流れてきた木材などが、アーチを浮き上げる力や、地震で両岸から中央に力が加わる場合を考えると、わかりやすい。
 卵形のアーチの頂点は上からの圧力には強いが、下からの突き上げに最も弱いからである。
 なおかつ、アーチの上部にはほとんど石を積むことはないが、アーチの下にいくほど両側からアーチの中心に向けて力が加わるような石の積み方をする。
 さらに、半円の約4分の1しか使用していないアーチを持つ、矢部の北川内橋を例にとるならば、寺勾配や鎖垂線の椒念を当てはめることができるのだろうか?
 これは、種山石工の祖、藤原林七が秘密とした和製アーチ工法を疑うような考え方であるが、否定はできず、技術上の研究課題とするべきであろう。
 輪石1個の合端線の角度は、積みながら調整できるものではない。
 円の中心から水糸を引きながら、合端線を放射状に仕上げることは、はとんどの石橋の場合、無理である。
 ほとんどの場合、石橋のアーチの中心は水の中であり、大水がでる前に急いで石を組み上げる必要からも、すでに輪石の角度は加工されていることが望ましい。
 林七が長崎から持ち帰った技術は、単に円周率(π=3.14159)であり、その利用法を曲尺(かねじやく)によって裏付けたものが、種山石工の秘伝となったのではないかと、考えられるのである。
 なぜなら、林七は長崎奉行所時代に、出島に居留する西洋人に非合法に接見し、円周率の修得半ばにして暴かれ、熊本に逃げ潜んだ経緯がある。
 3.14という不思議な数を、輪石の加工に関して、どのように利用するのかまでは、修得していなかった可能性が十分にある。
 逃げ潜んだ種山では、円周率についての研究に明け暮れたものと考えられるが、楕円や、鎖垂線にまで考えが及んだとは思えない。
 種山付近で普請されていた寺の屋根勾配からヒントを得た、という伝承があるからである。
 林七は、3.14という数字から、輪石の内周の1辺の長さと、中心角を求める方法を、曲尺の裏目(うらめ)を利用して会得したのではなかろうか。
曲尺の図 当時の宮大工が使用していた曲尺は、単位が変わっただけで、基本的に現在使用されているものと変わりがない。確かに曲尺により、点の連続で円を描くことはできる。
曲(まがり)尺と書くが、「かねじやく」と読む。丸く曲がっているわけではない。
 直角に曲がった物差しであり、裏表に打ってある日盛りの幅が、ある割合で違うので、計算尺のような役割をするのである。
 丸太の直経を測ると、その裏目には切り出せる角材の一辺の長さが刻まれていたりする。
 これはルート2の応用だが、もし林七が試しに3.14の倍数を裏目に刻んでみたとするならば、技術改革とも言える一大事なのである。
 中心から糸を引っ張って円を描くしかなかった日本に、円周率(π=3.14159)の導入により、初めて高度な円の計算法を導くことになるのだ。
 仮にそうであれば、裏尺にπを刻むことだけで、画期的な発明なのである。まして、それを応用した各部の寸法の出し方を弟子だけに伝えたとなると、これは秘伝中の秘伝であろう。また、アーチにはそれだけで十分であったような気がする。
 その曲尺は秘宝として潜んでいる可能性がある。林七の性格なら有り得るのだ。
 種山石工を冒涜するような、うがった仮説であるが、技術者としての立場から、アーチの秘密をロマンとして継承するには、少々頭のうずく問題のようである。

以上、「木鷺野橋移転復元工事記録」より

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<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会