通潤橋架橋の知恵と技術

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 通潤橋は人や車を通す橋ではなく、橋の上に石造パイプ3列の通水管を通した水路橋である。水路は逆サイホン(注)とも呼ばれる連通管によって対岸に水を送る構造になっている。アーチ橋自体の技術的、美的価値とが相俟って、極めて重要な建造物と認められ、昭和35年に国の重要文化財にも指定されている。(左の写真は矢部町役場より提供いただきました)

 矢部一帯は阿蘇外輪山のすそ野、柔らかい凝灰岩に覆われ浸食を受けやすく、谷は狭くて深い。雨は多いが、火山灰大地のせいで水は地中深く抜けてしまう。水がないため水田もできず、多くは原野のまま、畑はあっても干魃に脅かされ、飲料水さえ不足するありさま。特に白糸台地にはひどい状況であった。もし、この台地に水を引くことができれば100町歩(100ヘクタール)の水田を得ることができるのである。

 しかし、課題は多い。台地の周りは50mから100m余りの渓谷である。谷川から水を汲み上げることは不可能で、上流から水を引くにも、この深い渓谷をいかにして水路を渡すかである。木の橋では難しい、橋脚のない橋が必要となる。すぐ南隣の砥用に霊台橋(れいたいきょう)が完成したのが弘化4年(1847)。霊台橋のようなアーチ式石橋ならば可能かも知れない。しかし、谷の深さが違うし、それに水路を渡す橋でなければならない。そのために資金面以外にも、解決しなければならない技術的な問題も多かった。

 通潤橋は逆サイホン(注)式の水路を利用したアーチ式石造水路橋である。通潤橋の架橋は、当時の人々の様々なアイデアや技術と努力の集大成であった。その一端を紹介したい。

 山都町浜町のすぐ東側に阿蘇氏の城跡、ここから轟川(五老ヶ滝川とも、緑川の支流)を渡れば、川幅も狭く架橋には適地。しかし、水路を通す高さは最低でも29mは必要であることが解った。技術的な面ばかりか、資金的にも29mもの高さの石橋はとても無理だ。霊台橋は我が国最大のものだが、それでも16.4mの高さである。
 そこで考えたのが連通管(注)の原理だ。吹上樋(ふきあげひ、ふきあげどい)というものがある。用水路が小川を交叉するとき、川の下をくぐらせて水を吹き上げさせる仕組みである。水道はどれほどの深さまで潜っても問題ないのだろうか。霊台橋並の橋を造るとなれば、吹上樋は13mは必要ということになる。
 吹上樋の実例視察のため日向(宮崎県)や薩摩(鹿児島)まで出かけたが、みな規模は小さく、参考にはならなかった。新たに実験する以外にないということで、その実験は始まった。
 嘉永4年(1851)、五老ヶ滝川の現地で行った実験は、落ち込み3m、吹き上げ2.7m、厚さ4.5cmの松板で内径80cm四方の箱を造り、90cmごとにたがを締めて通水するが失敗に終わる。
 嘉永5年(1852)、水源である笹原川の「こぶれがし」で、実際に近い落ち込み12.7m、吹き上げ12.3m、松板の厚さを7.5cmとして通水したが、8mまで吹き上げたとき途中から水が吹き出し、これまた失敗。
 今度は水の勢いが強くあたって破れる部分を石樋に代えて松板と交互に使ったが、石の継ぎ目に使った「しっくい」から水が噴き出してしまい、失敗。
 石樋と石樋をつなぐため、石に漆喰(しっくい)を詰める繰り込みをつけ、板樋の「たが」も45cmごとに狭めるなど、管やつなぎの漆喰の詰め方などの工夫を凝らし、ついに成功することができた。嘉永5年(1852)3月13日であった。(実験に使われた石管の一部が現地に現存)
 漆喰は、若松葉の新芽を釜で炊きつめた松葉汁を、赤土、川砂、貝汁に入れて、石うすでつき混ぜる。それに塩や卵白を入れて3時間ほど突き混ぜて作る。
 石管は、石に30cmの半円状の穴をくり抜き、二つ会わせて丸い管とする。繋ぎ合わせるのに平板に漆喰を入れても不充分だから、辺に平行に二筋の5cmの深さの溝に詰めた。漆喰を詰めて70回ほど棒で突き詰めて密着させた。水漏れをしない石管作りの創意工夫である。

 今度は橋の規模である。橋高が高くなれば、技術的な問題とともに費用もかさむ。水面から4mまでは両岸の岩盤が利用できそうである。岩盤の上に霊台橋とほぼ同じ大きさの眼鏡橋を架ければ高さは20m、それに吹上樋の実験で成功した12mを加えれば、30m近くになる。これで水路の高さを29m以上とする問題が解決できた。
 水面から4mの岩盤からアーチを組むため、岩盤が水で洗われやすい白糸側には、岩盤を石垣で覆う。これには熊本城の石垣「武者返し」を利用してかぶせることにした。石垣が壊れないように、垂直な部分にはコの字形の石を鎖(くさり)のように交互につなぎ合わせ(鎖石工法)、28カ所に挿入して補強することにした。
 
平成の石管修理始まる
2000/11/23撮影
修理で姿を表した石管
2000/12/24撮影
白糸台地側の吹き上げ口
 橋の上の用水路には板を使わず、石の管だけにした。63cm角の石の中央を31cm角の穴をあけ、そこを水が通るようになっている。石の厚みは38〜55cmさまざま。石をつなぐためには、井桁に掘り窪めて「しっくい」を詰めるようになっている。石の管が小さいため水路は3本あり、取り入れ口で水の量を調整できるようにしてある。橋の中央部で放水し、中にたまった土砂をさらえて掃除ができるようになっている。水路は地震などの衝撃を緩和するために、1本125mの間に5カ所ほど、厚さ50cmの松板を挟(はさ)んである。このように石管にも様々な工夫が!
 
 模型を作って、細かな検討が重ねられた。工事期間も水量が増える時期を避けて、冬から翌年の梅雨前までの240日、綿密な工程を考え、各工程を着実に実行しなければならなかった。
 嘉永5年12月、着工。白糸側に現場事務所を建設、大工は原木の切り出し、石工は石材の切り出しにかかる。石は橋の前後に適当な硬さの凝灰岩が豊富であった。資材の準備が秋に終わった。
 まず、材木で支保工造りが始まり、支保工の上に両側から切石を並べて輪石とするのである。輪石は眼鏡橋で最も重要な部分である。石の一個一個を槌(つち)で叩(たた)いて、ひびの有無を確かめながら積んでいった。最後は中央の輪石である、これを要石という。要石をはめ込むときは、家を建てるときの上棟式と同じで重要な儀式でもある。要石は「どうづき」で硬く打ち込む。
 輪石が完成したら石垣を築く、壁石である。壁石にも独特の工法が考えられている。普通の壁石以外に、壁石を支える為の「鞘(さや)石垣」を壁石の下方部分に築いてある。橋の高さが幅に比較して高いからであろう。これが通潤橋のどっしりした重厚さを醸し出している。(写真参照)

 安政元年(1854)7月29日、落成式を迎えた。7日前より支保工を取り外し始めた。最後に一番高い柱を15cmほど切り取ると、一瞬、土煙と轟音、橋は沈みかけたかに見えたが、びくともしなかった。

 次は通水だ。取り入れ口の樋門が開けられると、水は水路をひた走り、水の振動が石橋の響きかのように伝わってくるとともに、吹上口に水が湧きだした。通水は成功したのだ。

 放水に取りかかった。橋の中央部の前後の栓を抜く。突然の激しい水しぶきとともに、水が飛び出し、3本のアーチを描いた。しぶきの中に虹が立った。橋と水と虹、幾重ものアーチが山里の空に映った。こうして幾千人もの住民の見守る中に通潤橋が完成したのである。

 なお、昭和39年、橋のすぐ下の上流側に内径0.8mのヒューム管が川底に新設され、通潤橋石管水路の代わりに白糸台地へ送水しており、通水量も2〜3倍になっている。
 このような大規模な石造ア−チ式水路橋が、近代的な機械も新素材も無い江戸時代に、矢部郷住民の知恵と汗で造り上げられています。改めて当時の技術と熱意に敬意を表したいものです。肥後の石工たちにとっても、当時の先端技術の集大成的価値をもった大工事だったことでしょう。このような技術や知恵の蓄積があったからこそ、幕末から明治維新にかけての近代日本の発展へとつながったとも言えます。
 日本の一地方である「熊本」で、当時の「ニューテクノロジー」が開花していたのです。私たちは、郷土の先人たちへ敬意をはらうとともに、もっともっと肥後の石橋に関心を持つべきではないでしょうか。
 本ページを作成するにあたっては、田辺哲夫著「布田保之助」、矢部町(当時)教育委員会「通潤橋」、矢部町(当時)「通潤橋保存修理工事報告書(昭和59年3月)」などを参考に致しました。資料をご提供いただいた矢部町(当時)役場に感謝申し上げます。

なお、通潤橋の石管の防水工事は2002年3月完了、
矢部町と清和村と蘇陽町は2005年2月に合併し、山都町に。

最終更新:2005/02/20  <制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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