御船川目鑑橋の崩壊は人災!

元々の設計にはミスは無かった!

 昭和63年(1988)5月3日午後8時過ぎ、熊本県下を襲った歴史的な集中豪雨によって、県重要文化財「御船川目鑑橋」が流出してしまった。嘉永元年(1848)生まれのこの石橋にとって、141年目にして初めて経験した忌まわしい出来事でした。

 「140年と言ったら、寿命ではかったの?」
 「もう既に現役を引退していた橋ではないか!」
 「現代社会になじまない古びた橋なんて、どうでもいいじゃないか!」
 「復元する金なんてない!」と、
 今、忘れ去られようとしています。

在りし日の御船川目鑑橋みふねがわめがねばし

太田幸生氏撮影

 

 本当に役目を終わっての流失なのでしょうか。今の時代にそぐわない設計だったのでしょうか。しかし、聞くところによれば、架設後、特に流出直前の橋周辺の環境が大きく変化していたという事実が明らかになっています。


  • 「めがね橋」の下流にあった酒屋の堰が撤去された(昭和47年頃)ために、橋底の土砂が洗い流されており、流失の危険が予想されていた。(流失半年前に、指摘されている事実も!)
  • 元々の「めがね橋」は中央部が高く、両端は低くなっていて、水かさが増えた場合、水は両端の低いところに流れるように設計されていた。後になって、馬車が通りやすいように両側の壁石を積み上げられており、水の逃げ道がなくなっていた。(下図参照)(明治41年の県道改修に伴い、橋の両端の石垣を積み直し、路面を平坦にしたとの記録)
  • 戦後植林された杉や檜など、根が浅い針葉樹の流失による大量の流木が、「めがね橋」をせき止められ、横からの大きな力を受けた。(アーチは横方向の力に弱い)
  • 大正元年とか、昭和26年や47年の水害の方が水かさは大きく、御船川に架かる他の橋は流れても、「めがね橋」は流れなかった。(昭和26年の大洪水では、昭和初期に架けられた鉄筋コンクリート製の御船新橋は流失したが、めがね橋はびくともしなかった)

 以上の事実からも解るように、人為的と言ってもよい周囲環境の変化が流失の大きな要因となったようです。肥後の石工たちの設計は間違っていなかったのです。元々、水かさが増えれば、橋の両サイドに水を流して橋を守る構造だったのです。根が深い広葉樹林の山だったら、流木も少なかったはずです。まだ堰があったのなら、橋の底の土砂は流されずに、橋は守ることができたのです。
 元々の石工たちの工夫や技術はすばらしいものでした。コンクリートの寿命は高々100年程ですが、永代橋の異名を持つ石橋の寿命は、数百年、数千年とも言われています。


 県の重要文化財がそのまま忘れ去られても良いのでしょうか。元々、価値のないものが重要文化財に指定されていたとは考えられません。流失の責任は現世代の私たちにあるのです。先人たちの遺産を次世代に受け継ぐのは、現世代の私たちに与えられた努めかと思います。

 熊本城の整備のために、100億円以上の予算をかけるとも聞きます。お城と石橋、どちらが価値あるものだったのでしょうか? そんな比較など不可能かも知れません。しかし、お城より価値がないとは絶対に言えないのではないでしょうか。
 住民の生活ために、地元産出の材料(石)を利用し、地元の石工たちが当時の最先端技術を駆使し、住民の浄財と労力を結合して造りあげた「めがね橋」です。長い間、地域の風景としてに溶け込んでいた「石橋」です。郷土の先人たちの偉業をたたえるとともに、私たちに誇りと自信を与えてくれる記念碑でもあります。
 平成12年4月、鹿児島県と鹿児島市は100億円をかけて、肥後の石工「岩永三五郎」たちが鹿児島市内に架橋した石橋を移築復元し、彼等の業績を称えるとともに、石橋の歴史や技術を後世に伝えるために石橋公園と石橋記念館を完成させました。「我が熊本でも!」と願いたいものです。

 右に紹介している詩は、古代ローマ帝国の役人「フロンティヌス(Sextus Julius Frontinus 40-106年頃)」の言葉だ(山本宏著「橋の歴史」森北出版より)そうです。
 何も、芸術的価値を無視したり、実用・実利主義に徹するつもりもありません。しかし、「肥後の石橋」の価値を考えさせられる言葉かと思い、ここに紹介致します。私たちも「見よ このすばらしい肥後の石橋を・・・」と叫びたくなります。
 見よ このすばらしいローマの水道橋を
 大きいだけで 何の生産もしないピラミッド
 有名なだけで 役立たずのギリシャの芸術品
 そんなものと
 このローマの水道橋の優劣を
 正気で比較するものが いるだろうか
  
 「肥後の石橋」という、世界遺産にも匹敵する「郷土の歴史的文化財」の復元を願う!

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<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会