御船川目鑑橋の復元を!

  ・・・ 今、「御船川目鑑橋の輪石たち」は泣いています! ・・・

「御船川目鑑橋崩壊は人災」へ

 
御船川目鑑橋、クリックで大画像 在りし日の 御船川目鑑橋みふねがわめがねばし
撮影:1988/05/01
流失2日前の貴重な写真です。
画像をクリックすると大画像も!

常石先生提供

 みなさん、御船川目鑑橋のことを覚えていますか? 今では知らない人のほうが多いのではないでしょうか。
 緑川の支流、御船川に架かっていた美しい二連式のアーチ橋で、水切りの付いた橋脚にツタがからまる優雅な姿は見事でした。熊本の石橋の中でも最も美しい石橋の1つとして、長い間多くの人々に親しまれてきた石橋でした。熊本から宮崎への主要道路(日向街道、現在の国道445号線)で、140年以上も活躍してきた石橋でした。
 しかし、昭和63年(1988)5月3日の洪水で流失、現在ではその姿は見ることはできません。地元御船町の人に聞いても、復旧の予定はないようです。実に残念なことです。輪石(わいし、下に写真)等は保存されているようですし、写真をはじめ、調査記録なども多い橋で、復元の為の資料は多く、技術的な面での心配はないとも聞いています。

 濱田様のページに御船川目鑑橋のすばらしい写真があります。


1世紀以上の風雪に耐え、人々の暮らしを支えてきた
郷土の宝の一つが「御船川目鑑橋」です。
 

保存されている御船川目鑑橋の輪石
 御船町内に保存されていた(写真)が、保存場所の近くの人も「何の石なのか?」知らない人も。大事な文化遺産「御船川目鑑橋」を記憶から風化させていいのでしょうか?ところが2005年2月、保存されていた石が全て消えてしまっていた。「いよいよ復元か?」と、御船町へ問い合わせてみると、保存場所を変更(マウスオンの写真)したとのこと。石を全ての測定・調査し、今度は案内板も設置する予定とのこと。復元への一歩となることを期待したいものです。

 「石橋なんて過去のもの、現代社会になじまないから流失したんだ。今更そんな橋を復元したって何になるんだ?」
 本当にそうなんでしょうか!「この目鑑橋が流失したのは、この石橋の構造的欠陥からではなく、下流の用水堰の撤去とか、上流の山への針葉樹植林など、架橋後の人為的な川や山の変化によるものであって、石橋自体の設計上の欠陥はなかった」とも聞きます。川や山の環境や構造が架橋当時と大きく変化したからなのです。

 私たちの先輩が、汗と技術で残してくれた財産を、私たちの世代で無くしても良いのでしょうか。「肥後の石橋」は権力や富の象徴としてではなく、住民の要望により、住民の為に、地域に産する材料を使って、住民の手で築き上げられた「価値ある文化遺産」です。そんな先人たちの遺産を、次世代に受け継ぐことが、私たちの責務ではないでしょうか。

 
「御船川目鑑橋」の復元を!

 素人考えながら、河川改修で大幅に変化した元の場所に復元するのは無理かとも思います。場所を限定しない、移築復元の可能性は大いにあるものと感じます。「肥後の石橋をより多くの人々に知っていただく為のシンボル」としてだけでなく、「熊本を紹介するモニュメント」としても充分な価値や魅力があります。ところが、私たちの希望とは反対に、御船町では重要文化財の指定を取り下げ、目鑑橋のミニチュアを残し、残りの石は処分する方針との「うわさ」を聞きました。単なるうわさである事を祈ります。

 近年、近代的で斬新な公共建築物が次々と造られていますが、「郷土の先人達が残してくれた歴史的文化遺産の復元を!」と、声を大にして訴えたいものです。幸いにも、まだ文化財の指定も解除(平成16年4月に解除されたとのこと)されていないようです。早く復元の気運が高まることを祈るばかりです。鹿児島では五大橋の大々的移築復元工事や資料館・石橋公園が平成12年4月に完成しました。その完成式典には石工岩永三五郎の関係者の方をはじめ、熊本からも多数の方々が出席されました。石工たちのふるさと「我が熊本でも!」と願うばかりです。

(重要文化財の指定が簡単に解除されることに対しても憤りを感じます、元々それほどの価値が無いものだったんでしょうか、価値があったからこその重文指定だったと信じています、一度無くしてしまったものは永久に戻ってきません、現在の経済的都合だけで判断していいものでしょうか、今は出来なくても何時の日にかということも、その日が来るまで、せめて石を保存して置くだけでもと願う!)

本ページは、平成10年8月、御船川目鑑橋150歳を記念して作成
その後、随時更新 最終更新:2005/09/09

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


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