石工「岩永三五郎」 |
岩永三五郎は肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持ち、熊本では初めての水路橋「雄亀滝橋」をはじめ、薩摩藩の招請を受けて、西田橋をはじめとする鹿児島「五大石橋」を架設するなど、肥後の石工の名声を大いに高めた人物です。 左の写真は八代郡鏡町芝口に建てられている銅像です。宇城市松橋からの県道鏡線を竜北町から氷川の浜牟田橋を渡ってすぐ右折し、堤防沿いに1km程進み、左折すると左側の三五郎一族の墓地の奥にあります。手に持っている曲尺(かねじゃく)は石工のシンボル! 写真:2004/02/28 |
三五郎は「八代郡野津手永西野津村(現在の竜北町)」の石工「宇七」の次男として生まれ、父より石工としての技術、種山石工の祖「藤原林七」からはアーチ式石橋技術を伝授されます。以前は藤原林七の次男と伝えられていたのですが、林七の娘婿ではあるようです。
三五郎が石工としての真価を発揮したのは、天保10年から嘉永2年までの鹿児島での業績でしょう。鹿児島で三五郎の直属の指揮監督者であった海老原清熈は「性質淡薄にして寡欲、石に良工なりしは人の能く知るところにして、水利を見、得失を考え、大数を測るに敏なる。初めて見る地といえど神のごとし」(銅像横の鏡町教育委員会の説明板より)と、彼の人間性を高く評価しています。石工としてだけでなく、人間「三五郎」を表現したものに違いありません。
元 号 | 西暦 | 年齢 | 記 事 |
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寛政 5 | 1793 | 八代郡野津手永西野津村(現在の竜北町)石工宇七の次男として生まれる | |
文化11 | 1814 | 22 | 鵜ノ瀬磧、糸田磧(甲佐町) |
文化 末 | 道川内橋(?) | ||
文化14 | 1817 | 25 | 砥用手永柏川井手(文化11年 文政2年)で雄亀滝橋着工(文政元年9月完了) |
文政 3 | 1820 | 28 | 七百町新地の築造(文政3年〜天保元年)苗字御免之御惣庄屋直触、「八代郡中石工共惣引廻」で工事中に限り、岩永姓を名乗る |
文政 4 | 1821 | 29 | 三五郎樋門(鏡町) |
文政 7 | 1824 | 32 | 六嘉堰樋門(嘉島町) |
文政 9 | 1826 | 34 | 六地蔵谷のめがね橋(氷川町) |
文政13 | 1830 | 38 | 鏡町鑑内橋(橋のたもとの案内板より)磧鏡町鑑内橋(橋のたもとの案内板より) |
天保 元 | 1830 | 38 | 七百町新地工事の功績で苗字(岩永)を許される(当時としては異例の事) |
町田太鼓橋(?) | |||
天保 3 | 1832 | 40 | 男成川眼鏡橋(現在の聖橋、矢部手永,5月) |
天保 4 | 1833 | 41 | 下馬尾川眼鏡橋(現在の濱町橋、 〃 ,11月) |
天保 5 | 1834 〜1838 |
君ヶ淵眼鏡橋、新免眼鏡橋、大手平眼鏡橋、他無名橋(3橋)赤松橋(葦北郡二見地区、現在は八代市二見) | |
天保10 | 1839 | 47 | 調所広郷、海老原清熙を介し三五郎を薩摩招聘 郡代奉行見習となる(天保11年春?) |
天保11 | 1840 | 48 | 孝行橋、行屋下橋、蛭子下橋、潮見橋、境橋、大手橋、山下橋、堀之面5石橋祇園ノ洲埋立 |
天保12 | 1841 | 49 | 三五郎波止場、新橋、吉野橋、殿様橋 |
天保13 | 1842 | 50 | 永安橋(抱真橋)、戸柱橋、黒葛原橋、一ツ橋、大乗院橋、稲荷橋 稲荷川改修、甲突川改修、川内川開削 |
天保14 | 1843 | 51 | 東市来補田堰、神子川さらえ(良眼坊)、新上橋着手 |
弘化 元 | 1844 | 52 | 妹背橋(弘化3年完)、加世田大井手堰 |
弘化 2 | 1845 | 53 | 湊橋、二月田橋、五間橋、新上橋(留入9月12日) |
弘化 3 | 1846 | 54 | 西田橋(弘化3年9月11日)、仏性橋、水ノ手橋、新波止場 |
弘化 4 | 1847 | 55 | 高麗橋留入(10月26日) |
嘉永 元 | 1848 | 56 | めくみ橋(嘉永元年3月)、武之橋(留入4月10日)、河頭太鼓橋、上原橋 |
嘉永 2 | 1849 | 57 | 洗川落、八間川堤防工事 玉江橋(3月28日)、江ノ口橋(嘉永2年8月) 八代郡鏡町村芝口に戻る(57才) |
嘉永 4 | 1851 | 59 | 東光寺環龍物寄付(5月) 10月5日野津手永鏡町村で没(59才)、菩提寺は野津東光寺 |
岩永三五郎の石橋以外の作品例。上の写真は霧島神宮の 「岩永三五郎」の手のものが「霧島神宮」にあると聞き、神社の方にお聞きしました。「手水舎の龍」「手水鉢」「灯篭」の三点でした。龍はすぐに分かりますが、あとの二点は人に見られることもなく社務所横の庭園に佇んでいました。「手水鉢」に残された三五郎の文字を見て感激しました。三本の足の一つに「奉納 肥後国石工 岩永三五郎」、もう一本に「天保十三 壬寅 九月吉祥日」。デジタルで撮ったもの2枚添付します。(2004/07/04)その後上の写真3枚を送っていただき、差し替える(07/08)ことに。 |