熊本文学散歩


熊本時代の漱石

村田由美先生(元本校国語科)

漱石と中村汀女の人形
熊本近代文学館にて

 明治二十九年(1896)四月十三日、後の漱石・夏目金之助が池田停車場(上熊本駅)に降り立ちました。漱石満二十九歳。今からちょうど百一年前のことです。当時五高教授であった友人菅虎雄の斡旋によるもので、五高の英語講師として招かれたのです。漱石は、明治三十三年七月、文部省の命を受けて英国留学のために熊本を離れるまで四年三ヶ月熊本に滞在しました。

 昨年、熊本は漱石来熊百年を記念してさまざまなイベントが行われました。「坊ちゃん」でわく松山の滞在期間がわずか一年たらずであったのに対して、熊本での暮らしが四年にも及んだ事を知らない熊本県人も多かったと思います。「草枕」や「二百十日」など熊本ゆかりの二つの作品があるにも拘わらず、残念なことに、松山以上に漱石が熊本にゆかりが深かったことは案外知られていなかったのです。

 しかし漱石にとって、この熊本時代は、漱石の生涯の中でも比較的幸福な時間ではなかったでしょうか。月給は百円で、松山時代と比べると二十円のアップ。熊本で中根鏡子を花嫁として迎え、新婚時代を送ります。見合いの席で鏡子が歯並びの悪さを隠そうともせず平気でいるところが気に入ったというのですから、変わっていることは確かです。

 漱石と鏡子の結婚式は、実に簡略に行われました。鏡子のいう「裏長屋式の珍な結婚式」です。光琳寺の家(熊本での最初の家)の離れの六畳で結婚式は行われました。漱石はフロック・コート、鏡子は夏の振り袖、父親は普段の背広姿で、年とった女中が仲人からお酌まで一人でこなす始末で,婆やと車夫が、客になったりしました。費用はしめて七円五十銭。鏡子は三つ組の杯が一つ足りないのに気づきました。のちに漱石は、鏡子が、当時のエピソードを語るのを聞いて「けしからん話だと思ってきいていたら、おれたちのことか。道理で喧嘩ばかりしていて、とかく夫婦仲が円満に行かないわけがわかった」と笑ったそうです。けれど漱石が鏡子を選んだことは正しかったかもしれません。鏡子夫人は後に「悪妻」の典型のようにいわれますが、物事にこだわらない大らかな女性だったらしく、だからこそ大勢の弟子たちが出入りする所帯をたいして苦にもせず切り盛りしたのでしょう。漱石は熊本でも新婚早々から同僚を下宿させたり、五高生を書生としておいたりしています。

 東京にいたとき、買い物もろくにしたことがない鏡子にとって、家事はなかなか大変な仕事だったようです。しかも、鏡子の朝寝坊は有名で、努力しても一生なおらなかったようです。漱石もしばしば朝食抜きで学校へ行くことがありました。やることなすことにへまの多い鏡子を、漱石はしばしば「オランチノパレオロガス」といってからかったそうです。しかしそこには、新婚らしい楽しげな言葉のやり取りさえ感じられます。

 「吾が輩は猫である」に登場する多々良三平のモデルといわれる俣野義郎という人は、後に実業家になった人ですが、豪傑で数々のエピソードを残しています。朝寝坊で、大食漢で漱石のお弁当まで食べてしまうほどでした。漱石が上京している留守に何人かの学生を呼んでどんちゃん騒ぎをしたこともあります。けれども漱石は決して怒ることはなかったそうです。後に漱石が畏友(いゆう)として生涯接した、寺田寅彦と出会うのもこの時期です。寅彦は、現在漱石記念館となっている内坪井の第五旧居で書生においてほしいと頼んだそうですが、物置以外に空いた部屋がないと言われて諦めたという話が残っています。経済的に余裕のあるときには、いつでも学生に快くふるまい、また苦学生にお金を与えたりしたそうです。

 そういう意味では、この熊本時代は経済的にも比較的安定した時代だと言えるかもしれません。この後、留学先のロンドンでの漱石の窮乏生活は知られているところですし、帰朝後の漱石もまた五高教授の座をなげうったために一高の講師を兼任しながら貧しい生活を立て直さなければならなかったのは、輝かしい留学後の姿としてはあまりに皮肉なものでした。

 漱石は、また、英語教師として実に精力的に働いています。赴任早々、五高生の英語の学力不足を心配して、自ら課外を中心になって行っています。人事についても校長の厚い信頼を得て積極的に関わり、狩野亨吉をはじめとする人材の確保に力をふるっています。

 ただそんな中で、鏡子夫人が最初の子供を流産し、その後強度のヒステリー症状のため、増水した白川で投身自殺を図ったことは漱石の人生に暗い影を落としました。熊本時代漱石は多くの俳句も残していますが、病気の妻を一晩中看病した折の「枕辺や星別れんとする晨(あした)」は優しく心にしみる名句です。

 明治三十二年五月、長女が誕生します。鏡子が悪筆のため、上手になるようにという願いが込められて「筆」と命名されます。現漱石記念館には筆子が産湯を使った井戸というのが残っています。「安々と海鼠(なまこ)のごとき子を産めり」は、長女誕生の時の句です。色の黒いお手伝いさんが筆を抱くと、色の黒いのがうつると言って心配した、など熊本時代の漱石は子煩悩ぶりを発揮しています。そこには、後年、精神的に不安定な状態で子供たちを訳もなくしかりつけたという漱石の片鱗もうかがわれません。

 漱石は、明治三十三年七月、文部省の第一回給費留学生として英国に渡るため、熊本を離れます。帰朝後、漱石は熊本に帰ることはありませんでした。けれども、熊本での体験がやがて「二百十日」「草枕」という作品として結晶し、特に「草枕」は漱石が職業作家として歩み出すきっかけとなるのです。(文責:村田由美 1997年4月8日)


 松山の1年に対して、熊本には4年以上も暮らし、結婚や子供の誕生という節目を迎えた漱石、文学でも草枕二百十日などの名作を残しており、三四郎も熊本の高等学校を卒業して上京します。それなのに熊本と夏目漱石のつながりを知らない人が多いとは、寂しく残念な気がします。熊本人はPR下手なのかなとも。漱石の小説の中に出てくる熊本の描写は草枕や二百十日以外にもいろいろあるようです。「漱石の作品から熊本を発見!」面白そうです、今後の課題にしたいものです。なお、「帰朝後、漱石は熊本に帰ることはありませんでした」とありますが、長崎で下船(明治36年1月20日)、熊本に立ち寄り(21日)、帰京(24日)する説も有力。(PC同好会)
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

製作:1997/04/15 最終更新:2006/07/22


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