熊本文学散歩


猿丸太夫さるまるだゆう

奥山に紅葉ふみわけなくしかの
声きくときぞ秋は悲しき

 小倉百人一首の中にある猿丸太夫さるまるだゆうの歌です。「山奥で散り積もった紅葉をカサカサと踏み分けながら鳴いている鹿の声が聞こえてくるときこそ、秋は悲しい季節だとしみじみと感じます」と歌っています。百人一首の中でも特に印象深い歌の一つでしょう。

 この歌の作者「猿丸太夫」は、いつ生まれ、いつ亡くなったかも解っていないようです。平安初期の歌人で、36歌仙の一人としても知られていますが、まさに伝承上の人物で、歌の有名度に比べ、生涯の詳しい実像は明らかでないようです。各地に遺跡や言い伝えは多く残っています。例えば、兵庫県芦屋には社(やしろ)があり、その子孫が住んでいるとか。また、大阪府堺や長野県戸隠、新潟県東蒲原、山形、金沢、福島県南会津など、ゆかりの地は数多くあります。(柳田国男集「神を助けた話」等より)

 ところで、私たちのふるさと熊本にも、「上益城郡山都町(旧蘇陽町)に、猿丸太夫の墓と伝えられるものが残っている」という情報を、詫麻中学校の斉藤重信先生にお聞きし、さっそく訪ねてみることにしました。(平成10年11月22日)


高森から高森峠を
越え、トンネルを抜
け、山都町に入る。
国道325号線へ左
折し、「埋立バス停」
先の五差路をまっす
ぐ都留への212号
線に入るとすぐ、
その名も「猿丸」と
いう集落がある。
集落を通り過ぎる
辺りの左側土手に
猿丸太夫翁墓地の
標識が見えてきた
(左写真)

標識に従って、落
ち葉でいっぱいの
山道を歩いていく
と樹齢数百年の大
木の下に墓が!
 

 
自然石で造られた墓標は2つに割れて
はいるが、猿丸太夫の名前と歌がはっ
きりと刻まれている。 
なる神の音をも高き宿人の
夜を猿丸の奥津城ぞこれ
(猿丸の墓であることを示す歌)
阿蘇の外輪を越えた、九州脊梁山脈と
の間の山深い集落である。
まさに「奥山の紅葉踏み分け・・・」
そのままの土地だったことでしょう。
 

 猿丸地区の佐藤さんというおばあさんにお聞きました。「猿丸太夫さんは旅人で、ここに住んでいらっしゃたとは聞いてません。ここには猿丸さんのお母さんが住んでいらっしゃったんです。ある日のこと、お母さんが箕(みの)を着て山の中を歩いておられました。猿丸さんは、お母さんを獣(しし)と間違えて弓を放った為、お母さんは亡くなられます。猿丸さんの悲しみといったら・・・。遺体はそこのケヤキ(樫だったかも?)の木の下に葬られて祀られていましたが、今ではそのケヤキも枯れてしまいました・・・。」今でも猿丸太夫の話が伝わっています。県立図書館にあった蘇陽町編集「蘇陽町の文化財」には「樫の大木」とあり、聞き違えた可能性も、「昭和45年、落雷のため枯木した」とも。


 都から遠く離れた辺境の地に、勅撰和歌集の作者の墓石! その真偽の程は解りませんが、猿丸太夫やその歌との出会いを素直に喜びたいものです。ただ、「小倉百人一首」で猿丸の歌とされている理由は、「猿丸太夫集」に入っているからというだけで、「古今集」では詠み人知らずの作であり、また「猿丸太夫集」に彼の作品だと確認されているものは一首もないとのこと(日本古典文学大辞典)です。猿丸太夫の歌であるという確かな根拠もありません。ましてや前述のように、猿丸太夫そのものの存在さえ怪しいということ。しかし、私たちのふるさと熊本に「猿丸太夫」の言い伝えが残っているというだけで、「奥山の・・・」という歌や百人一首がより身近に感じられ、未知なる作者への憧れというか興味も増します。なお、同じ小倉百人一首の「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」の作者「小野小町」の伝説も鹿本郡植木町に残っています。(1998年11月24日)

最終更新:2007/02/02

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<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会