本名を益田四郎時貞といい、元和7年(1621)江部村(現在の宇土市旭町江部)に生まれる。父益田甚兵衛はキリシタン(切支丹)大名小西行長の元家臣で、小西家没落後、江部村で農業を営んでいた。家族ともに敬謙なキリシタン信徒ででした。 当時の天草・島原地方は、飢きんや重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達してた。その不満を抑えていたのが、慶長18年(1613)、マルコス宣教師が追放される時残した予言「25年後に神の子が出現して人々を救う」。人々は神の子の出現に懸けていたのだ。予言にある25年目の寛永14年(1637)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂される。四郎の熱心な説教は人々の心をとらえ、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのである。 慶長6年(1601)、唐津城主の寺沢広高が旧小西領だった天草を統治する。その際、領内の石高を定めるが、耕地面積に乏しい天草にとって、4万2千石というのは実情を無視した余りにも過大な数値だった。寛永11年(1634)から続いた大凶作の中でも年貢の取立ては容赦ない。、生きたまま海に投げ込んだり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害。このような過酷な徴税と弾圧に絶え切れずに、起こるべくして起きた一揆と宗教戦争が「天草・島原の乱」である。寛永14年(1637)10月、年貢納入期を前に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、幕府軍と果敢に戦うことに。しかし、正規軍の幕府連合軍(12万人)と素人寄せ集め集団の一揆軍(3万7千人)、力の差は歴然。寛永15年(1638)2月、島原城の落城ととも一揆軍は全滅。幕府軍にも8千人の死傷者をだして終結。いつの世も戦いの結末というものは悲惨である・・・。 この時、四郎はわずか16・7歳、私たちと同じ高校生。どんな心境だったんだろう。天草・島原の乱の直接的な原因は藩の悪政に尽きるのだろうが、一揆軍全員玉砕という結末はキリストへのあつい信仰心の証なのだろうか。信仰心の強さに驚くばかりである。しかし、神様の為に自分の命を絶つなんて、殉教という言葉は、宗教心が薄い私にとっては、とても理解できそうにない。しかし、天草四郎を敬い、慕う気持ちは変わらない! |
天草各地にある天草四郎の銅像(撮影:2003/12/27) 4世紀を経た今でも、愛され続けている天草四郎 |
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天草・島原の乱で全滅したと思われていたキリシタンですが、明治のキリシタン解禁までの300年近く、厳しい弾圧に耐え忍びながらも、人知れず信仰の火を守り続けます。俗に言う「隠れキリシタン」です。文化2年(1805)には約5千人の信者が発覚という事件も。明治6年(1873)のキリスト教解禁後、大江や崎津などに天主堂が建設され、キリスト教徒として次々と復活、天草四郎らの志を現在に受け継いでいる天草の島々です。キリシタンの歴史を訪ねて天草を訪ねてみませんか。天草四郎メモリアルホール(大矢野町 0964-56-5311)、サンタマリア館(有明町 0969-54-0501)、天草切支丹館(本渡市 0969-22-3845)、天草コレジヨ館(河浦町 0969-76-0388)、天草ロザリオ館(天草町 0969-42-5259)などに足を運ぶのもいいでしょう。天草四郎の銅像も各地にありますので、銅像巡りもいいかも知れません。(2004/01/10) |