宮崎 八郎みやざき はちろう民蔵たみぞう彌蔵やぞう滔天とうてん


 
 西欧列強によるアジアの植民地支配の時代に、全アジアの独立解放と自由平等の実現を夢見て、全財産を投げうつなど、身を削って孫文(1866~1925 中国革命の指導者)らを支援し続けた兄弟たちがいました。荒尾の宮崎八郎・民蔵・彌蔵・寅蔵(みやざきはちろう・たみぞう・やぞう・とらぞう)の4兄弟です。
 日中両国の善隣友好とアジアの平和発展を考える場合、中国民衆のために生涯を捧げた兄弟たちの功績を忘れることはできません。彼等の行動は21世紀の私たちに、真の国際理解や国際協力とは何かを示唆しているように思えます。
生家にあった絵
 
 

宮崎八郎

 嘉永4年(1851)~明治10年(1877)
 藩校「時習館」で学び、上京中、中江兆民らと親交。中江兆民翻訳のルソー、「民約論」に感銘し、自由民権運動のリーダーとして、民権学校「植木学校」を創立。明治10年「西南の役」で、「熊本協同隊」を率いて薩摩軍に共鳴し共に闘ったが、八代で若き命を散らした。しかし、この八郎の生き様が、他の3兄弟の生き方の精神的原点となったと言われている。

宮崎民蔵

 慶応元年(1865)~昭和3年(1928)
 他の3兄弟(八郎・彌蔵・滔天)も、アジアの抑圧された民衆の救済、アジア民族解放を目標としたが、手段は3人それぞれ異なっていた。民蔵は貧農救済の立場から、土地均分を主張し、運動を進めた。孫文とも親交があり、辛亥革命後、中国に渡り、革命の援助を行った。孫文の三民主義の「民主主義」における「平均地権」の考えなどは民蔵の思想が生きているとも。

宮崎彌蔵

 慶応3年(1867)~明治29年(1896)
 兄弟の中でも屈指の思想家である。中国で、清朝の専制から解放する民権革命を起こし、欧米列強の侵略に対抗する拠点を全アジアに広げるという壮大な計画を持っていた。滔天の目を中国に向けさせたのも彌蔵である。自ら中国人になりきろうと髪も中国風(弁髪)にし、名も「菅仲甫」と変え、家族とも音信を絶ち、ひたすら中国の言語・習俗の習熟に励んだが、志なかばで病に倒れた。

宮崎寅蔵
(滔天)

 明治3年(1871)~大正11年(1922)
 兄彌蔵の影響を受け、中国革命成功のため、貧困の中にも物心両面での支援。中国革命の一方のリーダー黄興(こうこう)たちと孫文を引き合わせ同盟(中国同盟会)成立に尽力した。著書としては、孫文の存在を、中国知識人や学生に知らしめた「三十三年の夢」がある。1897年には犬養毅の依頼により、亡命中の孫文を荒尾の生家にかくまっている。
 

宮崎兄弟の生家と資料館

生家の母屋 生家の門,左の白壁が資料館
宮崎4兄弟の生家
所在地:荒尾市荒尾949 電話:0968-63-2595
 左の白壁の土蔵が生家敷地内の資料館で、兄弟たちをはじめ、中国革命や孫文に関わる資料展示とビデオなど。
生家付近の略図 国道208号線沿いの荒尾警察署を過ぎ、大きな交差点の2つ目を左折(右はグリーンランド)、踏切手前を右折。
入場料:一般 200円
     小・中学生100円
休館:月曜(祝日の翌日)

 孫文は亡命中の1897年と、辛亥革命の成功のお礼のための1913年に、2度この宮崎4兄弟の生家を訪れています。孫文は1925年に亡くなりましたが、孫文を慕う中国や台湾の人々にとっては孫文ゆかりの地として大切な場所であり、現在でも国内外から訪れる人が絶えないとのことです。100年経っても忘れられない国境を越えた友情、宮崎兄弟の行動と心を受け継いでいぎたいものです。
 

文責:熊本国府高等学校パソコン同好会
 

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