北里 柴三郎きたざと しばさぶろう


 
生家の庭にある銅像 日本が誇る世界的な医学者北里柴三郎は、ドイツの
ローベルト・コッホの研究室で貴重な研究業績を
つぎつぎに発表、とりわけ破傷風菌の純粋培養法の
確立と血清療法の発見は前人未踏のもので、世界の
医学界にその名をとどろかせました。
(北里柴三郎記念館パンフレット参照)
 
 
1852年12月20日
(1853年1月29日)
父惟信(これのぶ)、母貞(テイ)の長男として北里村(現阿蘇郡小国町北里)に生まれる。
1861年 9歳 小国郷志賀瀬村、橋本龍雲家(伯母満志(まし)の嫁ぎ先)に預けられ、四書五経の素読を受ける。
1863年 11歳 豊後国森、久留島藩、加藤海助家(母の実家)に預けられ、儒者園田保の私塾で学ぶ。
1866年 14歳 冬、熊本に出て儒者田中司馬の塾に入る。翌春、細川藩の儒者栃原助之進の塾に入り漢学を学び、武芸にもはげむ。
1871年 19歳 熊本医学校に入学する。
1875年 23歳 11月、東京医学校(2年後東京大学医学部と改称)に入学する。
1883年 31歳 4月、松尾トラと結婚する。
1885年 33歳 ドイツ留学を命じられる。
1886年 34歳 1月よりベルリン大学ローベルト・コッホの研究室に入り、細菌学の研究を本格的に始める。
1889年 37歳 破傷風菌の純粋培養に成功する。
1890年 38歳 破傷風免疫体(抗毒素)を発見する。12月、肺結核研究のため特に皇室から金壱千円を下賜され、留学期間を更に1年延長。
1891年 39歳 文部省から医学博士の学位を受ける。
1892年 40歳 プロシア政府からプロフェッショナルの称号を受ける。5月28日帰国し、内務省衛生局に復帰。
10月、福沢諭吉、森村市左衛門の援助により芝公園(東京都港区)内に伝染病研究所が設立され所長になる。
1893年 41歳 9月、結核サナトリウム「土筆(つくし)ヶ丘養生園」を開設する。
1894年 42歳 2月、伝染病研究室を芝区愛宕町二丁目に移転。
6月、香港に出張しペスト病原菌を発見する。
1895年 43歳 5月、小国の両親を東京に呼び同居して孝養をつくす。
1899年 47歳 伝染病研究所は国立となり引続き所長となる。
1906年 54歳 日本連合医学会の会頭となる。伝染病研究所を白金台町(現東京大学医科学研究所所在地)に移転し、拡張する。
1913年 61歳 日本結核予防教会を創立し副会頭に推される。
1914年 62歳 11月5日、内務省所管であった伝染病研究所が文部省に移管される。
即日、伝染病研究所長を辞任し、直ちに私立北里研究所を設立して所長になる。
1916年 64歳 8月、小国町に「北里文庫」落成。大日本医師会会長となる。
1917年 65歳 4月1日、慶應義塾大学医学科を創立して初代科長となる。
貴族院議員となる。
1918年 66歳 10月、私立北里研究所の財産一切を寄付して社団法人北里研究所を設立し所長となる。
11月、大日本私立衛生会会長になる。
1923年 71歳 11月、医師会令により日本医師会が創設され初代会長となる。
1931年 79歳 6月13日、午後五時脳溢血症により麻布の自邸にて逝去。
6月17日、青山斎場にて葬儀、青山墓地に葬られる。
 
 
北里記念館 北里文庫
大正5年(1916)、博士が私財を投じて、郷里の青少年に贈った。
当時熊本県立図書館につぐ大図書館と言われ、蔵書数1511冊と
記録にあり、終戦時までよく利用された。
木造洋風建設120㎡。この他にも、貴賓館や書庫などがある。
(北里柴三郎記念館パンフレット参照)
生家 生家の一部
明治元年(1764)総庄屋5代目北里伝兵衛家から分家して、
坂下屋敷と称していたが、明治28年(1895)両親を東京に呼び、
空き家となったため座敷の2間を残し、ほかの部分はとりこわされた。
現存するのはその一部分である。
(北里柴三郎記念館パンフレット参照)
 
 
北里柴三郎記念館利用案内
開  館 午前9:00~午後5:00まで
休館日 水曜日(但し祝祭日のときは翌日)
入館料 大    人:200円(団体20人以上160円)
小・中・高生:100円(団体20人以上 50円)
幼    児:無料
住  所 熊本県阿蘇郡小国町北里 北里柴三郎記念館
電  話 0967-46-5466
 

最後に
これを作るにあたって、記念館関係者の皆様には(館内写真禁止で写真を撮ったり・・・)
いろいろとご協力いただきました。この場を借りてあつくお礼を申し上げます。
本ページを見て(まだまだ未熟ですが)北里博士に興味を持たれた方は一度小国に
遊びに来てもらえば、もっと博士について知ることができると思います。

文責:熊本国府高等学校パソコン同好会
 

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