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以下の内容のメールをいただきました |
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メールをいただくまで、私も深く考えもせず「徒然無か」と書くものと思って使っていたようです。メールでご指摘通り、意味を考えれば、確かに「無か」ではおかしいですね。実に興味深いテーマだと思います。そこで「徒然中」という名詞かとも考えました。しかし、「一人じゃとぜんなかけん遊びに来なっせ」とか、「みんな出かけてしまって、とぜんのうして火の消えたごたる」というような使い方をします。語尾の活用があるということは「心もとなか」や「やるせなか」などと同じく形容詞でしょうか。他にも、「とんでもない」、「とほうもない」等の語尾が「か」に変った例は色々あります。
図書室にある日本国語大辞典(小学館)を調べてみました。寂しいという意味の「とぜんない」という「形容詞」方言が青森県三戸郡や福岡県久留米市あたりにあるようです。これが基本形でしょうか、「とぜんなか」が長崎から熊本にかけて分布しているとのことでした。ご存じのように、語尾の「か」は熊本弁等の独特の言いまわしです。例えば「良い」が「良か」等。同様に「とぜんない」を「とぜんなか」として終止形として使うのでしょう。形容動詞の「な」を残したままカ語尾形容詞となったものでしょうか。この大辞典の別冊に出典図書の紹介があるようで、もっと詳しい説明があるかも知れません。現在、別冊やその他の資料が見つかりませんので、他をあたってみたいと思います。
方言に詳しい国語の先生にお聞きしたところ、「ない」が否定でなく、肯定の意味で使われる例も多いともお聞きしました。それならば、「徒然なか」は「徒然ある」の意味になります。辞書によると、接尾語の「ない」は性質や状態を添えて、その意味を強調するとも。即ち「徒然」の状態を強調した表現が「徒然ない」すなわち「とぜんなか」ということになります。佐賀県などでは「ない(なーい」は「はい」の意味とのこと、無関係では無いようにも思われます。更に、はじめに言葉が生まれて、後で文法が生まれるわけですので、文法通りにいかない点もあるともお聞きしました。
語源大辞典より (東京堂出版) |
トゼンナ 【徒然な】 退屈な。トゼンは漢語の徒然から。 徒は、道を足でふみ歩くこと。 次に、動かないさまの意味から、たいくつの意に。 全国の方言に意味を変えて広まった。 さびしい、腹がへったのような意味でも用いる。 |
他にも「な」が付くカ語尾形容詞の単語としては、「変な」と言う意味の「ひょうなか」とか「妙なか」、「とんでもない」の意味の「トツケムニャー」の「とつけむなか」などもでしょうか。
何気なく使っていた熊本弁の「とぜんなか」、考えてみれば実に興味深く、また奥が深いものだと痛感いたしました。今後、方言関係の資料を調べてみたいと思います。
ところで、「上手な」は「な」がなくなって「上手か」となりますが、「な」が残るか残らないかの違いは、ただ「発音のしやすさからでしょうか?」とも思いますが、確信はありません。言葉は言いやすいことも重要な要素ですから、当たらずとも遠からずというところでしょうか。
その後、閲覧いただいた方から、以下のようなメール(2002/06/12)をいただきましたので、ご紹介します。 |
たしかに「徒然な」という形容動詞を載せている辞書がありますから、「とぜんな・か」説も捨てがたいのですが、三年ほど暮らした鹿児島で「とぜんね」という言葉を幾度か耳にしたことがあります。「ね」は同地方では「ない」の意なので、「とぜんな・か」ではなく、やはり「とぜん・なか」なのではないでしょうか。 そのうえで、この「なか」は何かといえば、御説のなかで紹介されている接尾辞としての「ない」【性質・状態を表す語(多く、形容詞語幹・形容動詞語幹など)に付いてその意味を強調し、形容詞化する】とみるのが妥当であるような気がします。 現在も生きている類例としては、「せわしい」の語幹「せわし」に「ない」を付けた「せわしない」が思い浮かびます。「せわしか」よりも「せわしなか」のほうが強意であるのはネイティヴ・スピーカーなら実感できることと思います。 ここまでは文法上の話です。以下、語のニュアンスについて私見を述べます。 「ない」は必然的に「無い・亡い」を連想させます。「とぜんなか」の場合には、このことが喪失感・寂寥感を増幅させる効果をもつと推測します。「とぜんなか」には年老いた母が似合うと思っているのはわたしだけでしょうか。ただし、ストレートな悲壮感はさほど感じられません。むしろ、そこには落ち着きがあり、そこはかとない暖かさすら醸し出しているように思われます。「つれづれなるままに」とはちょっと違います。 また、「ない」のもつ否定辞としてニュアンスも生きているように思います。レトリックの一つである緩叙法(「良い」を「悪くない」と表現するときのそれ)に似た効果があるようです。わたしが現在住んでいるのは札幌ですが、当地では冬場の雪かきがけっこう大変です。そんなとき年輩者が口にする「ゆるくない」という言い回しには何となく余白(諦念と同時に奥ゆかしさ、ある種のゆとり・さとり)が感じられて趣があります。 いずれにしても残したい言葉ですね。それも辞書の紙の上に標本としてではなく、人の口から発せられる生きた言葉として。 |
とても参考となるメールありがとうございました。確かに、それぞれの言葉の奥底に秘められたニュアンスは独特のものがあり、他の言葉では言い換えることができないものがありますね。その意味でも方言の存在感があると思います。それぞれの土地の情景や環境にマッチした表現が可能なのが方言でしょう。生きた言葉として末永く使い続けていきたいものですね。
私自身、元来国語は不得手なもので、間違いもあるかとも思います。お気づきの点等、ご指導・アドバイス願えたら幸いです。