どんどや


 

 「どんどや」とは小正月(こしょうがつ)の行事で、正月の松飾りなどを家々から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすことである。神事から始まったのではあろうが、現在では宗教的意味あいは少ない。どんどやの火にあたったり、残り火で鏡餅を焼いて食べれば、その1年間健康などの言い伝えもあり、無病息災(むびょうそくさい)五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る民間伝承行事である。熊本では「どんどや」と呼ぶのが多いようだが、全国各地の呼称には「とんど焼き」「とんど」「どんと」「さいと焼き」「さぎちょう」「おんべ」「おんべ焼き」など多数。

青竹のやぐらを組んで点火 残り火で餅を焼く
 地区ごとに、田んぼや空き地で竹や木で(やぐら)を組み、中に(かや)(わら)などの燃えやすいものを詰めて、下から火をつける。日中行われることもあるが、元々夜の火祭り。  炎がおさまった残り火で、鏡餅(かがみもち)を焼いて食べる。灰に(まみ)れ、炎や煙で焦げ付いた餅の味もまた格別なのだが、最近は汚れないようにアルミホイルに包む人も。
 上の写真は甲佐町での2つの別々の地区の風景。左のほうは4人(?)で、大変だったでしょう。右のほうは人数は多かったが、楽しそうに餅を焼いているのは大人だけ(?)、子供たちは餅には感心がなさそう。

美里町の緑川ダム湖岸での大「どんどや」 「どんどや」の語源については、火が燃えるのを「(とうと)(とうと)」と(はや)し立てたことから、その囃し言葉が(なま)ったとか、どんどん燃える様子からとも。「どんどん焼き」、「どんど焼き」などの名称もあり、日本全国にある正月の火祭り行事。地方によっては「とんど」、「どんど」、「どんだら焼き」、「どんどろ祭り」、「左義長(さぎちょう)」、「おんべ焼き」、「さいとう焼き」、「ほっけんぎょう」、「三九郎焼き」、他にも「法成就]がなまって「ほちょじ」、「ほじょり」、「ほうじょり」など、「どんどや」の名称は全国にさまざま。お盆の火祭りにも「とんど」と言う名称を用いる地方もあるそうだ。(東京堂出版発行「年中行事辞典」などより)

 小正月を中心に14日の夜または15日の朝に行う所が多いのだが、同様な火祭り行事を正月6日または7日に行う風習も。また一部では、「年越しどんど」と言って、大晦日に古い注連縄(しめなわ)神棚(かみだな)の不要になったものなどを集めて美里町の緑川ダム湖岸での大「どんどや」焼く行事を行い、更にもう一度14日の夜などに二度火祭りをする地方も。最近では、地域や子供会の活動として、1月15日以前の日曜日に実施している所も多くなった。(燃え上がる「どんどや」の写真はは砥用町(現美里町)緑川ダム湖畔で上は2004/01/11、右下は2009/01/11撮影)

 枯れ木や青竹で高く櫓(やぐら)を組み、櫓の下に茅(かや)や藁(わら)などの燃えやすいものを詰め込んだ「どんどや」。火を放つと、「バンバン・バシーッ・・・」と大きな音を響かせて、天高く大きな火が舞い上がる姿は、まさに日本古来のファイヤーストームの様相も!竹ざおの先に鏡餅を挟んで焼いて食べるのも楽しみだった。食生活が豊かな最近の子供達にとっては興味はそれ程でもないようで、楽しんでいるのはお父さんやお母さん達だけかも知れませんね。
 


 以下、奈良県の岡本様からいただいた情報です。「とんど」と言うそうですが、その様子等、共通点も多く参考になりますので、写真とともに紹介させていただきます。
奈良の「とんど」 貴校「どんどや」拝見致しました。私の方も、青竹・藁(わら)・木端を組んだとんどの中に、注連縄(しめなわ)や神棚のお札類などを入れて燃やします。小さい頃は、1年間練習した習字の紙が燃えて高く舞い上がれば書道が上達する、とよく親に言われました。
 かっては小正月の15日未明でしたが、今は成人の日です。隣組が順送りで当番を務め、日曜日に準備し、翌朝5時ごろから脇とんど(村人が暖を取る焚き火)を燃やし、区長が神社にお参りした火を6時にその年の恵方(えほう、干支で決まる吉の方向)から点火する慣わしです。払暁(ふつぎょう、明け方)のとんどは近隣では知りません。永く後々の世代にも引継いでもらいたいものです。
 火勢が弱くなると、とんどの火を家紋の入った丸提灯に頂いて帰り、神仏にお灯明をお供えします。それから、その火を、昔はかまどに、今はガスコンロに移して「あずき粥(かゆ)」を炊き、餅を入れてきな粉で頂きます。小正月の雑煮なのでしょうか、我家では未だに頑なに守っています。
 みんなが帰った頃、東の空がやっと白みかけ、やがて山の端から日の出が拝めた今年は最高でした。快晴・無風で炎の昇竜の如き写真の出来栄えに我ながら驚いています。
 尚、私の村は「藤森」と言う環濠集落(かんごうしゅうらく、周囲をほりで囲まれた集落)でして、かっては大化の改新の藤原鎌足(かまたり)公に始まる多武峰(とうのみね)大職冠領で、社殿も多武峰・談山(だんざん)神社から移設され、村名もそれに由来する --- と伝えられています。
 ありがとうございました。習字紙の話等、聞いたことがあります。点火や分火のしきたり等、勉強になりました。最後は、とんどの火を各家に分火し神仏に供え、その火で調理をし、無病息災家内安全を祈念するというのが本来の習慣なのですね。どんどやも最近はほとんど昼間の行事になってしまっていますので、未明の炎(右上の写真、送っていただいたものを縮小しています)が実に迫力があり、印象的ですね。元々どんどやをはじめとする火祭りは夜の行事なのでしょうね。
 
   昔旧暦では、1年の最初の満月にあたる1月15日が「正月」だったという話。明治6年1月1日(明治5年12月3日)以降、太陽暦を用いるようになり、1年の最初の日の元旦を正月と言うようになり、1月1日を「大正月」、1月15日を「小正月」(陰暦の14日の夜から16日までを言う場合も)と言うようになったとも。昔の生活では、闇夜の大正月より、満月の小正月のほうが親しみやすかったからだとか。
 他に1月7日を「七日(なぬか)正月」、1月20日を「二十日(はつか)正月」とも言う。七日正月には、七草粥(かゆ)を食べて1年の無病息災を願う。この日までを松の内と言う。小正月は、女正月、花正月とも呼ばれ、餅花や削り花を飾る所も。二十日正月は、骨正月とも言われ、おせち料理のブリの骨や固くなった鏡餅を食べるところから、乞食正月、奴(ヤッコ)正月、棚探しなどとも言われ、正月の終わりとする地方もある。
 
   もともと、新年の仕事始めの儀式のひとつ。昔「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物で使わずに手や槌で割り開いたのが語源。「鏡」は円満を「開く」は末広がりや繁栄を意味し、縁起がいい言葉。鏡餅は一年の幸せを願い神様に捧げたもの、丸い形は家庭円満を表し、重ねるのは年を重ねる、長寿の意味。もちを食べると力が授けられるとも、飾った後、食べてこそ鏡餅の意味があるというもの。
 
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作成:2002/01/15 最終更新:2008/01/14

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