熊本文学散歩


 文学者たちの足跡を追うだけでなく、一歩踏み込み、感じたままをことばに表すことも楽しそうです。そこに、新たな文学が生まれ、新しい文学の故郷が誕生する可能性も!そこで今回は、昭和44年発行の本校文芸部誌「サギタリウス」にあった本校国語科の故帆足公立先生の文章「短歌批正」(批正:ヒセイ、批評し訂正すること)を紹介させていただきます。歌に限らず、文章を作成する上で参考になりそうです。


短歌批正

 歌作りのけいこをして何になる。その話はあとまわし。
 人間は感情の動物だから、ものに触れ、ことに触れ、だれでも感動があるはずだ。その感動をことばにして、五七五七七につづるのが短歌というものだ。たったそれだけ。
 ことに触れ、ものに触れて、どういう感動を持つかはその人による。だから、まず、人が問題になるが、それはむしろ短歌以前の問題だから、さしあたりどうにもならない。AはAなりに、BはBなりに、それぞれの感動をのべるところから短歌ははじまる。
 歌を作るのに、いちばん大事なことは、自分が本当に体験した実感を言うことである。君らの作ったものを読んでみると、どうもそうでないものがある。それは読めば私にはすぐわかる。そういうものは、たとい形だけは短歌の形になっていても、だめである。ことばが死んでいるからだ。ことばは生きていなければならぬ。

  母からのぶあつい手紙なつかしく封切る前の心ははずむ A子
 A子は、阿蘇の産山で、現在市内に自炊をしている。おかあさんから手紙が来た。そのことを言っているので、これでよい。欲を言えば、「なつかしく」とは言わないほうがよい。言わなくてもわかっている。

  母からのぶあつい手紙うけとりて封切る前の心ははずむ
こうすると、もっとよくなる。

  実習へ旅立つ男のたくましさ広い海の東支那海 B子
 B子は天草である。水産高校の実習生が出て行くところだろう。これもほんとうのことを言っているから、これでよい。言い方が少し下手だから、そこを直す。

  実習に旅立つ男たくましく行く手はいづこ東支那海
こうすると、ととのってくる。

  寮の朝六時に起きて屋上に登りて涼し朝の点呼 C子
 寮に入っているC子の歌で、これも自分の生活を歌っているから、まずこれでもいいが、

  寮の朝六時に起きて屋上に登れば涼し点呼はじまる
とすれば、調子がととのってくる。

 ことばのどこがいけないかは、なれないものには、自分でよくわからない。なれてくると、それがだんだんわかるようになる。それが作歌の勉強というものだ。

 蛇足をひとつ、つけ加えよう。
 歌作りの勉強をして、何になるのだろうか。歌や文章よりも、まず一人前の人間になることのほうが大切じゃないか、と思いはしないか。それはその通りだ。では一人前の人間になるにはどうするか。それにはいろいろあるだろうが、歌を作ることもその一つである。自分の思うことを、曲げずに、素直に言うことは、日常の会話でさえ、やさしいことではない。しかも、それをよくわかるように言いあらわすには 、どうしてもことばの修練が必要である。ことばの修練を積むことによって、人間の真実性がみがき出されてくるものだ。人間の真実性がみがき出だされてくると、より確かな人間、より豊かな人間ができてくる。人間ができてくると、従ってよい歌ができるようになる。こうして歌と人間は、循環的に向上するものなのだ。そこに歌の勉強をする意義があることを言っておく。(昭和44年11月8日)


 学校の図書館で、昔のサギタリウスを読んでいて発見しました。三十数年前の帆足先生の教え、私たちのwebページ作りにもつながるものを感じます。ことばの選び方ひとつで、調子が整い、いい歌になるのですね。「ことばになれればわかるようになる」とのこと。まずは作ることから始めるということです。作ることにより、ことばに「慣れ」て、いい歌が作れるように「成る」ということですね。短歌、私にも作れるかな。(短歌ではなく、詩を作ってみました。05/6/24)(作成:2002/02/20 更新:2005/06/24)

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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