まぼろしの卒業式

・・・ 開戦とともに始まった本校の歴史 ・・・

熊本国府高校 鳴海秀人、高木美年子、常石訓弘、園田寿子、日永めぐみ


1.はじめに

 熊本国府高校の前身、熊本女子商業高校が創立されたのは、1941年(昭和16年)5月18日のことである。1941年といえば、戦況はアジアから太平洋へと拡大された年で、国内は戦争一色で塗りつぶされていたはずである。老若男女を問わず、戦争への奉仕こそが国民の第一義的課題であった。

 そんな状況の下で、女子ばかりの商業学校として発足した本校は、いかなる道をたどることになったのであろうか。直接、戦場に駆り出されることはなかったにしても、兵士として駆り出された男手の不足を補うために、何らかの奉仕が義務づけられたことは想像にかたくない所である。
 私たちは、その点に注目し、創立から終戦までの約4年間にわたる期間を、第1回卒業生の2人から聞き取り調査をしてみることにした。
 

創立時の校舎
水前寺公園前の校舎
熊本市出水町今
第1回入学式
昭和16年5月18日
 

2.聞き取り調査

 熊本女子商業学校(のちの熊本女子商業高等学校)が創立されたのは、時あたかも太平洋戦争開戦の年であり、熊本でも紀元2600年を祝う花電車が通り、人々の気持ちは高揚し開戦に向けて世の中は勢いづいていた。
 そのような時勢の中で、これまでの女子の教育目標であった「良妻賢母」ではなく「社会に役立つ女子を育成するための商業教育を目指す学校を作ろうではないか」という気運が熊本商工会議所を中心に盛り上がり、それまであった実務養成所(修業年限2年)を基盤に動き出した。
 4月には開校できなかったものの、なんとか5月18日は開校にこぎつけた。生徒の家庭を回って(優秀な人材を)集め、家屋を譲り受けて、生徒数180名、教職員は校長を入れて8名、修業年限四年の商業学校を水前寺(サンリブ前、現在の労働金庫が建っている所)の地で創立したのである。

 生徒達の校長への信頼は厚く「最大の学校ならずとも最良の学校にしよう」を合言葉に校長自身も修身や公民の授業を受け持たれ毎時間全員で黙想して「月歪むにあらず波騒ぐなり……」と朗読していたそうである。
 その他に教科は、珠算、簿記、古文、なぎなた等の体育、家事(料理)、裁縫、商業算術、地理、歴史、理科、英語(少々)で6限(土曜日は4限)授業、特に珠算部の活躍はめざましく、西日本一の栄冠に輝き、その練習は毎日夜9時頃までも行われていたそうである。
 又、夏休みは地域ごとに団を編成して、神社や水前寺公園などの掃除をたびたび行ったりして平穏な日々だった。

 12月8日の開戦前後のようすは街角にある防火用水にルーズベルトとチャーチルの風刺絵が貼られたりしていて、まだまだ国の勢いを感じる雰囲気が満ち溢れていた。
 2年生になると制服のセーラー服からヘチマカラーにモンペの国民服に統一され、勉強からだんだんと勤労奉仕が主となっていった。
 クラスごとやグループごとに健軍、田迎、川尻、白藤などの各地の農家に手伝いに行った。
 田植え、稲刈り、からいも堀り、粟の穂ちぎりなど「お国の為になれるということは何とすばらしい時代に生きているのだろう」と喜んで仕事をし、苦にならなかったそうだ。
 休憩時間は土手に座ってみんなが「海ゆかば」を合唱していたという。
 昼食は農家でごちそうになり銀シヤリが出るのが何よりも楽しみだったとの事であった。

 空襲があるようになってくると次第に学校の防空壕に避難しながら授業を受けたりもしたが、そのほとんどが奉仕作業であけくれていた。そのような中でも珠算部の練習は盛んに行われ、灯火管制になると暗闇の中で「暗算の練習」をしたそうだ。
 4年次になると全員が貯金支局の事務員として動員され、軍事為替係、庶務係、原簿助手係として終戦まで勤めたそうである。
 生徒達は仕事を通じて兵隊さんからの家族への仕送りの手紙に涙し、「私たちはお国の為になっている。すばらしい事だ、幸せな事だ、まだお役に立つ事があればどんな事でもしたい。」と思っていたそうである。
 当時男性は徴兵され、職業婦人としての女性の人材が必要とされた中で、女子の商業学校設立は時代の流れに添ったものであった。

 昭和20年3月卒業式当日、学校に集合したものの空襲警報が鳴り、全員防空壕へと避難。卒業式はその後も行われず、答辞もまぼろしのまま今日に至っている。
 私たちは、その点に注目し、創立から終戦までの約4年間にわたる期間を、第1回卒業生の2人から聞き取り調査をしてみることにした。

3.終わりに

 聞き取り調査を実施して、私達が知らなかった事がいろいろわかってきた。
 学校の生徒であるからには、いろいろな夢を持って入学してきたはずだ。その夢の実現のために本当はいろんな勉強をしたかったであろうに、それができずに勤労奉仕と称して、出征した男性に代わって、いろいろな仕事をさせられた青春時代。まさに戦争は、人々から輝かしい青春を奪うのである。そして、それにもかかわらず純粋で一途な彼女達に、「お国のためになれるということは何とすばらしい時代に生きているのだろう」と言わせるのが軍国主義の実態である。
 ある卒業生が「最近オウム真理教の事がマインドコントロールだ何だかんだ、といろいろ話題になっておりますが、まさにオウムと一緒ですよ。今から思うと洗脳ですよ」と言ったことばが印象に残った。ある意味では教育ほど恐ろしいものはないのである。聞き取りをしながら、私達はこのことを肝に銘じて、一人一人の生徒の人権と個性を大事にする教育、平和と命の尊さを教える真の民主的な教育をめざしていかなくてはならないと痛感した。

 それから、よくアジアの人達から「日本人は、被害者としての戦争体験は叫ぶが、加害者としての戦争体験は口をつぐんで、ほとんど語らない」ということばが投げかけられる。確かにその通りである。広島や長崎の原爆被害の悲惨さについては毎年熱心に語られるが、わが国がアジア諸国に対して行った侵略戦争の結果生じたさまざまな問題、たとえば、従軍慰安婦問題、中国人を「マルタ」と称して行った人体実験の問題、南京大虐殺事件、花岡事件、中国残留孤児問題、サハリンに置きさられた韓国・朝鮮人問題、強制連行された中国人や韓国人への補償問題、台湾人元日本兵への補償問題、軍票の強制で財産を失った香港住民問題、広島で被爆した朝鮮人元徴用工への補償問題についてはほとんど語られないのが事実である。そして、それらの戦後補償はほとんど解決されていないのである。
 ドイツでは、早々と戦争責任を明らかにし、莫大な資金を投じて個人補償を行っている。わが国が戦争の責任を具体的事実一つ一つについて明らかにし、補償問題に対しても誠意をもって対処し、加害の教訓に学ぶことなしに、わが国がアジアで、いや世界で信頼される国にはなりえないのではなかろうか。
 また、そうした事実を若い世代に語り継ぎ、教育の場で、生徒達と共に考えていくのが私達教師の役目ではなかろうか。

 

 はたして「第1回の卒業式があったのか、なかったのか?」今でもはっきりと解かっていないようです。ある方は「後になって、先生が卒業証書を自宅まで届けてくれた」と。別の方は「卒業証書はもらっていない」、・・・実に様々。それほど戦争や空襲というものは悲惨で、思い出したくもない、あるいは混乱し「思い出せない」ものなのでしょう。


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