サクラは日本の文化や日本人の精神風土に、もっとも深く関わってきた花木とも。開花後、たちまち散っていくのが、日本人の心情にマッチしているのか、哀歓を誘う。
昔、サクラの咲き方や花のもちかたで、その年の稲作の豊凶を占ったとも。語源も、「サ」はくイネの精霊>、「クラ」は神座(かみくら)のように<集まりこもっている>の意味ということだが、異説も多い。
そのサクラの花の散り急ぐさまが惜しまれて詠嘆されるようになったのは、平安時代の宮廷貴族たちから。遺唐使が廃止され、日本独特の「国風文化」の萌芽(ほうが:芽を出す事)と機を一にする。渡来植物である紫宸殿前庭の左近のウメがサクラに代わったのも、この時代。「万葉集」には40首しか歌われなかったサクラが、「新古今集」では百余首あるのをみても、平安王朝人がいかにサクラを愛していたかを知ることができる。
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願わくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
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平安末期から鎌倉にかけての歌人で、各地に西行桜の名木を残した西行法師の歌である。後世国文字者の本居宣長によって<もののあわれ>の思想が謳(うた)われるが、サクラはまさに<もののあわれ>を具現化した花だった。
サクラが園芸品種として作出され、栽培、観賞されるようになったのは室町時代以後。足利3代将軍義満が1378(天授4)年京都室町に築いた新邸は<花の御所>と呼ぽれ、数々の名桜で埋められていた。おそらく当時知られた普賢堂(普賢象の古名)、信濃桜、西行楼、墨染桜、楊貫妃などが妍(けん)を競って咲き句っていたに違いない。
一時、戦国の大乱で数々の名桜は灰燼(かいじん:燃え尽きて灰になること)に帰すが、豊臣秀吉により再びサクラ文化は蘇生する。けんらん豪華な桃山時代を再現する<醍醐花見図>をはじめ、能衣裳、障屏画、その他多くの工芸品の意匠に、サクラ文様はふんだんに使われている。
室町時代がサクラ文化の開花期とすれば、江戸時代は全盛期。寛政から天保にかけての約50年間は品種改良の黄金時代で、その品種は250〜260種に達したという。花好きの将軍や大名の保護育成により、上野・隅田川堤・飛鳥山・小金井などに花の名所ができ、庶民の間で花見が広まったのもこのころ。
江戸染井村の植木屋が新種ソメイヨシノを売り出したのは、サクラ栽培が全盛期を過ぎ、名桜の廃絶の始まっていた幕末。ソメイヨシノは接木によって容易に増殖され生育が早く、花つきもよい上、花が大きくて美しいので東京を申心に急速に広まった。
今ではサクラといえばソメイヨシノを指すほど。ソメイヨシノが普及する明治から大正、昭和の初めは、サクラにとって不遇の時代かと。<散華>という言葉とともに軍国主義を象徴する花になってしまったからだ。しかし、戦後、サクラは日本を代表する気高くも優雅、そしてお花見にみられるような平和の象徴として再びよみがえった。
サクラは「バラ科サクラ属サクラ亜属」に入る多数の変種・品種の総称
下表も抜粋で、詳細は「講談社の園芸大百科事典」を! |
ヤマザクラ群 |
ヤマザクラ系 |
ヤマザクラは花と葉が同時に出、材質は堅く、家具や版木に。佐野桜、菊枝垂れなども |
オオヤマザクラ系 |
ヤマザクラより花が大きく、紅が強くつやがあり、岐阜県以北の山地、エゾヤマザクラとも |
カスミザクラ系 |
桜の中では最も古くからの園芸品種で、白雪、奈良(奈良八重)桜、紅玉錦など |
オオシマザクラ系 |
染井吉野、真桜をはじめとして数多くの園芸品種がある、真桜はさし木の台木にも |
マメザクラ群 |
マメザクラ系 |
緑桜、鴛鴦桜、冬桜など。冬桜は年末と春の2度花が咲き、春咲きのほうが花が大きい |
ミネザクラ系 |
花部になどに毛が多いチシマザクラなど、高山帯の2800m付近まで見ることができる |
チョウジザクラ群 |
チョウジザクラ系 |
小さな花弁を水平につけ、黒く熟した果実は甘味がある、花が大きいオクチョウジザクラも |
ミヤマザクラ群 |
ミヤマザクラ |
1種のみ。他の桜に遅れて、若葉とともにおしべの目立つ純白の花で公害に弱い |
エドヒガン群 |
エドヒガン系 |
枝が枝垂れているものをシダレザクラ(糸桜)。小彼岸、彼岸桜、紅枝垂、八重枝垂 |
カンヒザクラ群 |
カンヒザクラ系 |
緋寒桜と呼ばれていたが、彼岸桜と間違えられるため改称。一見紅梅を思わせる紅花 |
以上、講談社の「園芸大百科事典」より抜粋、詳細は同書を!
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