私たちの住んでいる熊本のいたる所に文学者の足跡が残っています。文学碑、墓、旧居など・・・。日頃、何気なく通っていた道のあの石碑が、有名な文学者のものだった・・・。なんて、ことになるかも。熊本にゆかりのある多くの文学者の中から、お二方を紹介します。

 夏目漱石
私、夏目漱石と申します。  誰もが知っている、千円札の『顔』夏目漱石。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こころ」「草枕」などの小説が有名です。たくさんの俳句も作っています。漱石は熊本を「森の都」と、呼びました。明治29年(1896)4月、彼が29歳のとき、四国の松山中学校から第五高等学校(現熊本大学)に赴任してきます。上熊本駅に降り立ち、京町台地から眺めた熊本の町並みの第一印象が「森の都」だったそうです。(とても緑が多く水もきれいで、すばらしい。と、思ったのでしょうか。)その後4年3ヵ月にわたって熊本に住みます。その間に、結婚し、長女筆子が生まれています。漱石は引っ越し魔だったそうで、この間に6回も転居し、旧居も6カ所あります。
(右上の写真は熊本大学内の銅像)
 熊本大学(旧五高)校内には、漱石が
五高の創立記念日に読んだ祝辞の一節
を刻んだ石碑が建てられています。
 祝辞の一節を刻んだ碑には・・・
「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ
 師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」
   明治三十年十月十日
           夏目金之助」

 とあります。

草枕の旅〜『草枕』ハイキングコース〜

 ここでは、『草枕』のもととなった夏目漱石の金峰山を越えて、小天温泉までの草枕の道すじを紹介します。皆さんも、この『草枕』ハイキングコースを楽しんでみませんか。

「山道を登りながらこう考えた」この山道とは、鎌研坂と、されています。そして、坂道を登りきると、鳥越の峠の茶屋に着きます。ここは、金峰山のハイキングコースにあるため訪れる人も多い。漱石関連の書類なども展示されています。しばらく、鳥越の茶屋を下って、追分けを過ぎて「草枕」ハイキングコースの案内板です(右の写真は、看板と石碑があり、石碑には・・・。)「家を出て 師走の雨に 合羽哉」と書いてあります。そこから、上り坂となり登っていきます。そうすると、野出の峠の茶屋に着きます。
 次の文章は小説「草枕」の一節です。
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五六足の草鞋が寂しそうに庇から吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばっている。

その峠の茶屋までは、上の写真の坂を登っていきます。
 峠の茶屋跡(野出越え)漱石が島崎(熊本市)から小天温泉(天水町)まで峠を越えて歩いた当時は、河内町(熊本市)の鳥越と野出の2カ所に茶屋があったようです。作品の舞台となったのは、この野出の方だと(右の写真)いわれております。しかし、もう茶屋はなく、駐車場と展望台、自然の景色と句碑があるだけです。「天草の 後ろに寒き 入り日かな」の句そのままの絶景です。
 そして、しばらく長い下り坂を歩いていくと、最終目的地となる、漱石館(那古井の宿)に着きます。小天温泉、漱石が明治30年の大晦日から数日の間滞在した部屋があり、その一室は当時のままに保存されています。ここは、当時の小天の前田案山子(衆議院議員・自由民権運動家)の別邸とのことです。草枕で登場する「志茂田家ヒゲの隠居」が案山子自身で、次女の卓がヒロイン那美のモデルだったそうです。
漱石館の庭にある句碑には、「かんてらや 師走の宿に 寝つかれず」(右の写真)
 そのほかにも「温泉や 水滑かに 去年の垢」漱石の俳句は、滑稽さの中にも人間味あふれる世界が表現されています。
 このような道を歩き、すばらしい景色の中、漱石はたくさんの俳句を作り、そして、『草枕』を作り上げていったのです。


  Lafcadio Hearn〜小泉八雲〜
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)で皆さんも知っている作品といえば、『怪談』が有名でしょうか。「耳なし芳一」「雪おんな」「ろくろ首」などの作品が載っています。
 ラフカディオ・ハーンは、1850年にギリシャに生まれました。軍医の父が赴任し、ハーンと母はアイルランドへ移住します。しかし離婚、母はハーンを残しギリシャに戻ってしまいます。父は再婚したものの病死。伯母に引き取られた後、アメリカへ。そして、ジャーナリストとして活躍し、日本に記者としてきます。しかし、契約の問題から仕事をやめてしまいます。ハーンは日本人の小泉節と結婚し、日本に帰化し名前を「小泉八雲」とします。
熊本と小泉八雲
 将来、日本が偉大な国になるかどうかは、―九州魂あるいは熊本魂、―すなわち素朴、善良、質素なものを愛して、生活での無用なぜいたくと浪費を嫌悪する心を、いかにして持ち続けるかどうかにかかっているのだと申し上げ、結論にしたい。
これは、『極東の将来』題して、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27年、第五高等学校と改称)の講演での、言葉を和訳したもので、右の写真は熊本大学の北キャンパスにある石碑。
私、小泉八雲と申します。
Lafcadio Hearn
 明治24年(1891)11月、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27年、第五高等学校と改称)の英語教師として、島根の松江中学校から赴任、明治27年(1894)10月までの3年間を、熊本で暮らしました。Lafcadio Hearn(日本名 小泉八雲)は、日本女性を妻に持ち、長男も熊本で誕生しています。
 熊本の風土、五高の学生に親近感を持ち、『極東の将来(The Future of the Far East)』と題しての講演(記念碑が熊大構内にあります。上の写真)は学生、職員たちに感銘を与えました。日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」、「東の国から」などの著書は、熊本での生活から生み出されたものです。
(1850年6月27日生 1904年9月26日没)

 左の写真は、来日前の39才の時(1889年頃)、アメリカで撮影されたものです。八雲は16歳の時失明した左眼を写されるのが嫌で、両眼が写っている写真は稀とのこと。小泉凡先生より提供頂きました。

 八雲が來熊した当時の熊本は、西南戦争(明治10年)の後で、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町でした。古来の家並みが消え、近代化されつつある町並みに失望したのは事実でした。しかし、質実剛健で、感情をあまり表に現そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなどの伝統的な風俗とか、飾らない行商人との会話などに特に興味をいだいていたようです。
 

八雲記念館(旧居)
 彼が熊本に赴任してきて最初に住んだ家が、八雲記念館として熊本市安政町(鶴屋デパートの真裏)に保存されています。中は、愛用していた机や椅子がそのままで、手紙等の資料も置いてあり、八雲の生活ぶりが見えるようです。今、隣りは公園になっておりたくさんの人の憩いの場になっています。
 和式をこよなく愛した八雲も、机だけは様式の特注だったそうです。さすがに長時間の正座は苦手だったようです。
『小峰墓地』 鼻かけ地蔵
 熊大の裏手、立田山の上り口の「小峯墓地」には、八雲が愛した石仏である「鼻かけ地蔵」が今もひっそり建っています。旧制五高教師だった八雲は、この石仏が大変気に入り、暇を見つけてはここに足を運び、石仏と語るのが好きだったとのことです。熊本大学や小峯墓地、立田山一帯は、様々な文学碑や歴史的旧跡も多く、現在でも市民の憩いの散策コースとなっています。
 

 ここでは、夏目漱石小泉八雲の二人を紹介しましたが、まだまだ多くの有名な文学者たちが足跡を残しています。それは、夏目漱石が『森の都』と呼んだように、すばらしい自然があったからです。文学者たちは熊本の風景や人情の美しさにふれ、素晴らしい作品を残す事が出来たのではないでしょうか。
 多くの文学者が愛した、すばらしい熊本の風景や人情を末永く残していきたいものですね。

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