熊本大学(旧五高)校内には、漱石が 五高の創立記念日に読んだ祝辞の一節 を刻んだ石碑が建てられています。 |
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祝辞の一節を刻んだ碑には・・・ 「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ 師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」 明治三十年十月十日 夏目金之助」 とあります。 |
草枕の旅〜『草枕』ハイキングコース〜
ここでは、『草枕』のもととなった夏目漱石の金峰山を越えて、小天温泉までの草枕の道すじを紹介します。皆さんも、この『草枕』ハイキングコースを楽しんでみませんか。
「山道を登りながらこう考えた」この山道とは、鎌研坂と、されています。そして、坂道を登りきると、鳥越の峠の茶屋に着きます。ここは、金峰山のハイキングコースにあるため訪れる人も多い。漱石関連の書類なども展示されています。しばらく、鳥越の茶屋を下って、追分けを過ぎて「草枕」ハイキングコースの案内板です(右の写真は、看板と石碑があり、石碑には・・・。)「家を出て 師走の雨に 合羽哉」と書いてあります。そこから、上り坂となり登っていきます。そうすると、野出の峠の茶屋に着きます。
次の文章は小説「草枕」の一節です。
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五六足の草鞋が寂しそうに庇から吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばっている。
その峠の茶屋までは、上の写真の坂を登っていきます。
峠の茶屋跡(野出越え)漱石が島崎(熊本市)から小天温泉(天水町)まで峠を越えて歩いた当時は、河内町(熊本市)の鳥越と野出の2カ所に茶屋があったようです。作品の舞台となったのは、この野出の方だと(右の写真)いわれております。しかし、もう茶屋はなく、駐車場と展望台、自然の景色と句碑があるだけです。「天草の 後ろに寒き 入り日かな」の句そのままの絶景です。
そして、しばらく長い下り坂を歩いていくと、最終目的地となる、漱石館(那古井の宿)に着きます。小天温泉、漱石が明治30年の大晦日から数日の間滞在した部屋があり、その一室は当時のままに保存されています。ここは、当時の小天の前田案山子(衆議院議員・自由民権運動家)の別邸とのことです。草枕で登場する「志茂田家ヒゲの隠居」が案山子自身で、次女の卓がヒロイン那美のモデルだったそうです。
漱石館の庭にある句碑には、「かんてらや 師走の宿に 寝つかれず」(右の写真)
そのほかにも「温泉や 水滑かに 去年の垢」漱石の俳句は、滑稽さの中にも人間味あふれる世界が表現されています。
このような道を歩き、すばらしい景色の中、漱石はたくさんの俳句を作り、そして、『草枕』を作り上げていったのです。
Lafcadio Hearn |
明治24年(1891)11月、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27年、第五高等学校と改称)の英語教師として、島根の松江中学校から赴任、明治27年(1894)10月までの3年間を、熊本で暮らしました。Lafcadio Hearn(日本名 小泉八雲)は、日本女性を妻に持ち、長男も熊本で誕生しています。 熊本の風土、五高の学生に親近感を持ち、『極東の将来(The Future of the Far East)』と題しての講演(記念碑が熊大構内にあります。上の写真)は学生、職員たちに感銘を与えました。日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」、「東の国から」などの著書は、熊本での生活から生み出されたものです。 (1850年6月27日生 1904年9月26日没)
左の写真は、来日前の39才の時(1889年頃)、アメリカで撮影されたものです。八雲は16歳の時失明した左眼を写されるのが嫌で、両眼が写っている写真は稀とのこと。小泉凡先生より提供頂きました。 |
八雲が來熊した当時の熊本は、西南戦争(明治10年)の後で、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町でした。古来の家並みが消え、近代化されつつある町並みに失望したのは事実でした。しかし、質実剛健で、感情をあまり表に現そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなどの伝統的な風俗とか、飾らない行商人との会話などに特に興味をいだいていたようです。
八雲記念館(旧居) 彼が熊本に赴任してきて最初に住んだ家が、八雲記念館として熊本市安政町(鶴屋デパートの真裏)に保存されています。中は、愛用していた机や椅子がそのままで、手紙等の資料も置いてあり、八雲の生活ぶりが見えるようです。今、隣りは公園になっておりたくさんの人の憩いの場になっています。 和式をこよなく愛した八雲も、机だけは様式の特注だったそうです。さすがに長時間の正座は苦手だったようです。 |
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『小峰墓地』 鼻かけ地蔵 熊大の裏手、立田山の上り口の「小峯墓地」には、八雲が愛した石仏である「鼻かけ地蔵」が今もひっそり建っています。旧制五高教師だった八雲は、この石仏が大変気に入り、暇を見つけてはここに足を運び、石仏と語るのが好きだったとのことです。熊本大学や小峯墓地、立田山一帯は、様々な文学碑や歴史的旧跡も多く、現在でも市民の憩いの散策コースとなっています。 |
ここでは、夏目漱石と小泉八雲の二人を紹介しましたが、まだまだ多くの有名な文学者たちが足跡を残しています。それは、夏目漱石が『森の都』と呼んだように、すばらしい自然があったからです。文学者たちは熊本の風景や人情の美しさにふれ、素晴らしい作品を残す事が出来たのではないでしょうか。
多くの文学者が愛した、すばらしい熊本の風景や人情を末永く残していきたいものですね。