熊本国府高校 長友 洋一郎
私は「同和」教育主担者2年目になります。 主担者を引き受けてから、新しい出会いを経験し、多くの学習の機会を与えられました。私の生まれ育った地域には、私の知る範囲では被差別部落はなく、当時は、私の家庭を含めて、大半は貧しく、子どもたちはたくましく生きて、いじめや、差別はなかったように思います。私の差別との出会いは、20年前に遡のぼります。私の受持った生徒は、大変優秀で、やさしく、明るく楽しく、成績はトップ、クラス委員の選挙では、全員の生徒が投票するような好人物でした。就職試験の時期になり、銀行を受ける事になりました。この銀行には、本校から毎年14〜15名の生徒が合格していましたので、校内で推薦された生徒は、全員合格していました。この年は15名受験し、この生徒だけが不合格になりました。当時は好景気で、一人で4〜5社受験できた時代でした。本人の言う「面接で失敗しました」を信じ、面接の練習を繰り返し、3回目の受験で、建築資材会社に決まりましたので、お祝いに家庭訪問したところ被差別部落でした。この出来事が、差別との初めての出会いだったと思います、この生徒は社内恋愛で結婚し、ただいま子育ての真っ 最中です。
部落の子どもたちと接する機会も多く、子どもたちは、多くの課題をもたされています、その中の1人が 洋子さん(仮名)です。
前任の主担者から、2年生の洋子さんの事は、詳しく聞いていました。欠席・遅刻・赤点が多く、1年終了時は、補習、追試で、やっと2年生に進級しました。4月の欠席は8日、主担者1年目の私は、毎日が研修で出張が多く、担任、学年主任と連絡を取りながら見守ってきました欠席すると担任は、電話で登校を促していました。
5月、相変わらず欠席は多く、12日、前任の主担者と家庭訪問しました、洋子さん宅は、アパートの3階、初めての訪問で大変緊張しました、これが差別意識だと思いました。チャイムを押すと、数匹の犬は吠えますが、返事はなく、ご近所の目もあり、長い時間そこにいる事も出来ず、空しく帰りました。洋子さんの家庭は、小学生の妹1人の母子家庭で、お母さんの仕事は朝が早く、子どもたちより先に家を出られ、洋子さんは、学校に行っているものと思っていたという事でした。お母さんの都合のいい日に家庭訪問したいと伝えると、学校で会いたいと申し出があり学年主任、担任、と同席し、私が「同和」教育主担者であることを知らせ、洋子さんの学校での状況を話し、励ましました。
「明日から頑張って登校します」と約束し、4、5日は出席は続きましたが、その後も欠席は多く、家庭に出向いても、玄関のドアーは開かず、学校に連れてくる事は出来ませんでした。階下のおばあちゃんに会い、対応を相談したこともあります。学校では、出席した日に担任に呼び出してもらい、少しずつ話すようになりました。欠席の理由を聞くと、「隣のおじさんが、酔っ払いでうるさくて寝られない」「友達のところに居た」「友達が退学してしまって、学校がおもしろくない」「退学したい」でした。私は、今まで関わった中退した生徒のその後や、就職から結婚までの苦労話しなどをしながら、何とか学校を続けるように説得してみました。
中間考査3日間すべて休みました、また、自転車の自損事故で10日間休み、6月末で欠席日数は合計32日となり、私は力の限界を感じ、出身中学の推進教員と、担任の先生に連絡を取り協力をお願いしました。また一方では、支部長さんに連絡し、洋子さんが中退の心配があることを伝え、励ましていただくようにお願いしました。
7月、お母さんから洋子が「退学届けを出してきて」と言われたと連絡があり、支部長さん、お母さん、洋子さん、校長を交えて話し合いをし、夏休みに今後のことは考えるということで、一応納まりましたが、1学期は、欠席41日、遅刻3、早退1、欠課11、13教科中、8教科は赤点という最悪の結果となり、私は、もうこれまでかと思いました。
夏休みには、赤点補習、追試がありますが、洋子さんはすべて休みました。電話で2、3度、連絡を取りましたが、あえて学校のことは触れませんでした。
2学期に入り、欠席は少しは減少し、退学したいとは言わなくなり、明るいきざしが見えてきましたが、迎えに行っても、ドアーは閉じたまま状況は変わりません。しかし、ドアーが開いていた時があり、起こして登校を促すと、制服を着て、支度をするまでの時間はかかりましたが、素直に私の車に乗りましたので、今までとは違う、彼女のやる気を感じました。
朝起きの苦手な洋子さんに、どう対応したら良いか、私は、毎朝お母さんが出勤される前、7時30分に電話を入れます、モーニングコールです。洋子さんを起こし、登校の約束をします、結果は良く、欠席は一段と少なくなりました。学校でも表情が明るくなり、家庭のこと、男友達のことなども話してくれました。彼は、中学校は違いますが同じ年で、明るく、優しく、働き者で、将来2人で店を持ちたいと楽しそうに語ってくれました。彼とは一度電話で話す機会があり、洋子さんが欠席しないように協力をお願いしました。
10月に入り、学校の近くの管理人から電話がありました。「生徒の自転車が放置してあり、迷惑しています」生徒部の教師が引き取りに行き、これが洋子さんの物であることが解りました。カゴなし、鑑札なしで、学校の駐輪場に置けない違反車でした。私は、近くの自転車屋さんに出向き、カゴを付け、修理し、安全マークをつけてもらい、学校の鑑札を受け、本人に渡しました。それ以後、わずかに遅刻はありますが、無欠席が続いています。自転車の修理がこれほど彼女を変えようとは、思いもよりませんでした。廊下で会うと「先生、カゴは高価だったでしょう」気に入っているようで嬉しくなります、まだ安心は出来ませんが、やっと学校に繋ぎ止めたと思いました。後は、赤点の解消と、授業時数1/3の壁を乗り越えねばなりません。
12月に入っても、無欠席が続いています、本校の進級の規定は、欠席日数が授業時数の1/3プラス単位数を越えてはいけません、洋子さんの欠席は、50日を越え、欠課時数も多く果たして、進級が可能かどうか、担任と二人で、3月終業式までの予想授業日数と、洋子さんの出席日数表を作成し、どの教科が何時間不足するか、計算してみました。その結果、情報処理・英語・計算事務の3教科が無欠席であれば、最終的には、進級できます、ただし1日の欠席、遅刻も許されません、ここまで来たので留年だけはさせたくありません。
年が変わりました、授業中、よく寝ていた洋子さんの態度が変わったことや、宿題や提出物を出すなど、先生方の評価も変わってきました。 赤点は、1学期中間考査を受けていないことが影響し、追試を待つしかありません。
2月、校内の胃の集団検診で、私は精密検査の指示を受け、数回の胃カメラによる検査で、胃癌の宣告を受け、目の前が真っ暗になり死をも覚悟しました。そのころ、洋子さんは1日休みました私の胃の手術のことを話し「卒業したいなら、命懸けで学校に来なさい」精一杯叱りました。洋子さんは、学年末考査の結果、5教科が赤点でした。本校の追試は、3回あり40点が合格点です、担任の先生方に補習をお願いし、私は3月末に入院し、4月5日に手術しました。幸いなことに、早期癌で他への転移はなく、胃の2/3を切除しました。彼女は計算事務、国語の追試を3回目で合格して、3年生に進級できたと、学年主任と担任から連絡を受けたのは、4月も半ばのことでした。入院生活は1ヶ月、5月に退院し、自宅寮養2ヶ月後、久しぶりに登校し洋子さんに会いました。「先生、体は大丈夫ね、3年生になれたので、もう先生には迷惑かけん、中退した人とは話しの合わん、学校の友達が良か」欠席は風邪で2日でした、若い新しい担任とも、いい関係ができています。
本校では、夏休みは3者面談です。洋子さんは卒業後の進路を決めなければなりません、美容師か、トリマーになりたいと、にこにこしながら話してくれました。担任との面談の後、1学期の成績表を見せてもらいました。赤点はなく、2年生時と比べると、大変良くなっています、もう大丈夫です、よく頑張ったと思います。彼女は確実に、学ぶ楽しさを知り、行動を始めました今後ともできる限りの関わりを持ち続けたいと思います。私も順調に回復しています、2学期から隣保館の学習か異にも参加できそうです、隣保館に足の向かない、洋子さんを今度こそ誘ってみようと思います。県同和教育研究大会での発表が決まり、このレポートを、本人と母親に読んでもらい同意を得ました。「これは、私のことたい、先生の勉強のためなら、使ってよかよ、勉強会に、いかんとは、友達がおらんけん」私と、彼女の「部落問題」との関わりが、やっと始まりました。
2学期に入り、私は授業に復帰しました。体重は9kg減少し、体力がないためか、声が出ず大変苦労しました。このころ同室で入院されていた方がなくなられたと聞き、仕事ができる喜びを感じました。
洋子さんの調べによると、熊本にはトリマーの学校はなく、福岡には行きたくないということでした。ペット美容室をたずね、熊本にグルーミング スクール(トリマーの学校)が2校あることを知り、2人で学校を訪問しました。学校では、多くの犬達が、カット、シャンプーの出番を騒ぐことなく、静かに待っています、子供が母親に甘える様に「先生、私もあんなになりたい」学費、内容を検討し、家庭的な雰囲気の学校を選びました。洋子さんの将来の生きがい、目標ができました。これからは彼女の目標の実現に向けて、よき相談相手になっていきたいと思います。
3月1日卒業式です。お母さんと2人で職員室まで挨拶にみえ「先生のおかげで、卒業できましたこれからも宜しくお願いします」胸がジンとなりました。