元ひめゆり学徒隊員「宮城さん」の証言

沖縄修学旅行報告(1998年)

 第二次世界大戦では、13〜19歳で構成されるひめゆり学徒隊の方が、約200名も亡くなられたと言われています。宮城さんは16歳の時に、女性のみで構成される「ひめゆり学徒隊」に入りました。
 当時、学校教育・新聞・ラジオはいつも「現在、我が国は優勢!」と伝え、戦場で功績を残した者が偉く、周りから国の誇りとされていました。
 それゆえに、学徒隊の人は「かっこいい戦争」というイメージがあったといいます。
 しかし、現実はそんなに美しいものではありませんでした。


 食料は一日おにぎり一個という過酷なもので、しかもそのおにぎりは、日に日に小さくなってゆき、最終的には「ピンポン玉のおにぎり」と呼ばれるほどになったそうです。
 もちろん戦場に性別の関係はなく、上官から男性と同じ言葉使いを徹底されました。
しかし、それでも宮城さん達は「女性としてのあこがれ」を夢見ていたそうです。
 学徒隊の皆さんは、防空壕へ薬品物を運ぶ仕事をしました。何kgもある薬品を背負い、敵機の飛ぶ中、病院から防空壕までの距離約40km以上も歩いていました。
 防空壕の内装は、洞くつに簡易ベットを並べシーツを敷いた風景を浮かべてもらえれば解ります。そのような場所で、宮城さん達は防空壕へ来る負傷者を看護、治療しました。
 当然、すぐに防空壕内は満員になり、上官からは「自力で来た者は中に入れるな!」とか、「死にそうな患者はほっとけ!」と指示されました。そして、助け無しでは歩くことも不可能な人だけ中に入れ、自力で来た人は再び戦場へ送り返したそうです。
 負傷のひどい患者の手術には、学徒隊の上級生(5〜6年生)が補佐役を勤めていました。時には麻酔無しの手術も行われ、補佐役が暴れる患者を必死に押さえてる間に、えぞ(腐りかけている部分)などを切り取っていたそうです。死亡した兵隊の後始末も彼女たちの役目でした。
 上官からは「死体処理も君達の仕事。できないのならば、君達は看護役じゃない」と言われました。
 防空壕の外にある敵機の爆撃でできた穴まで、シーツに死体を包み二人一組で引きずりながら運んでいました。シーツが無い時は直接引きずっていました。
最初は嫌がっていたものの、日が経つと感覚が慣れ死体処理が苦にならなくなったそうです。


 第二次世界大戦中、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄では国際法で禁止されているガス弾が使用されました。二発は共に防空壕に向けて撃たれ、一発目では約20名が生き残りましたが、逃げた先で運悪く二発目が発射され、ほとんどの方が亡くなられました。今でも、当時のガス弾による後遺症で苦しむ人もいるそうです。
 アメリカ軍が沖縄本土に上陸したときの兵隊が54万人。沖縄は9万人の戦力であったため、学徒隊の他にも、50〜70代の住人までもが戦場へ駆り出されました。それでも11万人足らずだったそうです。
 世界各地の戦場を経験したアメリカ兵の方が、当時の沖縄戦を「沖縄ほどひどい戦場は無い。私達は日本の兵隊を撃つ予定だったが、負傷者や民間人が戦場を歩いて狙うことができなかったので、仕方なく無差別攻撃を行った。」と言っています。
 つまり、この証言は、戦場においては、女・子供・一般市民であろうが、皆んなが標的になることを意味し、それは日本だけでなく、アメリカにも同様のことが言えると私は思います。


 こんな学徒隊も、突如上官から「解散」を命じられ、防空壕を追い出される事になったそうです。
 宮城さんや他の方達も「同じ死ぬのなら、苦しまずに死ねたらいいね!」と思い、即死を願いましたが、ある友人が言った「私!お母さんに会いたい!」の一言に、思いとどまったそうです。
 そんな宮城さんもアメリカ兵の捕虜になりました。「鬼畜米兵」と習ってきた人達を見て絶望感に襲われ、これからどうなるか不安にかられたと思います。
 しかし、宮城さんはアメリカ兵の、彼女にとって意外な一面を目の当たりにします。
 一緒に捕虜になった宮城さんの友人が、注射針を受けつけない身体であったのに、一生懸命に挑戦し、ようやく針が刺さった時、ほっと一安心した宮城さんに対し、アメリカ兵の人達は我がことのように喜んだそうです。


 捕虜から解放された後も、夜中に銃声や先生・友人の悲鳴が聞こえる気がして、眠れない日が続き、死んでいった人達を、逆にうらやましく思った事もあったそうです。そして、戦争が終わって40年近く、学徒隊の人達が眠る「ひめゆりの塔」に行き、供養をすることができなかったと言います。それは自分は母親に会えたのに、自分の母親にすら会えずに死んでいった皆にあわせる顔が無かったからだそうです。

 1984年、生き残った学徒隊で「ひめゆり同窓会」が開かれました。
 その場で「みんなのことを忘れない」ようにという意見が出て、当時の防空壕を再現したものや、学徒隊の人が持っていた遺品を展示してある博物館など、戦時中の様子を今に伝える建築物が建てられました。
 今では自分の体験談を話してくれる宮城さんも、昔は「思い出しくない」とか、「語りたくない」と思っていたそうですが、僕達のような戦争を知らない若者のために、涙をこらえ一生懸命に話して下さいます。
 宮城さんは最後に「平和無しで人は生きることなどできないことを知って下さい。」と言って、話を終わられました。(1998年12月)

文責:PC同好会 菊川豊,小原浩一,有田光宏,勢川周次郎 

レイアウト変更:2003/01/30


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