中学時代を顧みて

藤本光夫先生

 私が中学に入学した昭和16年は、中国戦線の膠着状態をなんとか打開しようとして、南進政策がすすめられると共に、国内においては思想統制がますますきびしくなり、強力な政治体制づくりがすすんでいた時期でした。教育の分野でも青少年に戦時訓練をほどこすことをねらいとした大日本青少年団が結成され、入学当初から教練の時間があってよく鍛われたものでした。この年の12月太平洋戦争が勃発、緒戦の勝利に沸きながらも、授業は落ち着いた雰囲気の中で真剣に取り組むことができました。特に初めて学ぶ漢文や英語は興味深い科目でした。しかし、英語の単語テストには閉口しました。1つでも間違ったら放課後の個人指導で違った数だけチョーク箱の董で頸をたたかれ、質問に答えられないと暗くなるまで残されたものでした。そして寮に帰るとまた「寮生で残されるとは何事か」と上級生からたたかれ、人知れず涙を流した苦い思い出があります。

 翌17年も緒戦の勝利がしばらくは続きましたが、6月のミッドウエー海戦で大損害を受け、戦局に暗い影がさしても、私たち国民には真実は知らされず、ひたすら戦意高揚がもとめられました。毎月8日は大詔奉戴日と定められ、学校では集団で神社参拝などが行われました。翌18年、3年生になってから敵性語排斥で英語の授業が学校から姿を消しました。英語の苦手な私は内心よろこんだことをおほえています。この頃から戦局の悪化に伴い、落ち着いた勉強はだんだんできなくなりました。労働力不足を補うため、学生の勤労動員を強化する政策が本格化し、食糧増産などの奉仕作業に出ることが多くなってきました。

 4年生になった19年の6月には、県下ほとんどの中学校4、5年生が鹿屋海軍航空基地に動員され、飛行機を爆風から守るための掩体壕づくりに従事しました。コの字型に土手を築き、その中に飛行機を退避させるための囲いですから一辺の長さもかなり長く、高さも4、5メートルはあったように思います。竹で編んんだ担架とざるで土を運ぶ肉体労働でした。1学年に1機分が割り当てられ、さらにそれをクラスで分担し、競争して築きました。私の組は要領が悪く、仕上げが一番おそかったことをおほえています。

 この動員は、わずか1ケ月ほどの短期間であったし、食糧事情もさほど悪い状態ではなかったので飢えと疲労で苦しんだ記憶はありません。ただ、宿舎では本格的な海軍式集団生活でかなり緊張したこと、夜中に非常呼集をかけられ、全員鉄拳制裁を受けたこと、私たちの先輩がこの基地から爆撃横で飛び立ったのを見送ったこと、その他、飛び交うゼロ戦の姿などが印象に残っています。

 作業も一応目的を達し、7月になって帰途に着きました。間もなくサイパン島が陥落し、絶対国防圏の一角が破れて戦局は重大な局面を迎えていたようですが、当時は徹底した言論統制下で、「日本は神国だから必ず勝つ」という言葉を信じきつていました。8月になってついに学徒勤労令が公布され、中学生以上は完全に学業が停止しました。そして軍需生産に従事しなけれぱならないようになりました。私たちは大村海軍航廠に動員令が下り、10月25日入所式を終えて発動機工場に配属されました。その直後、B29の空襲に遭遇したのでした。被爆体験のない私たちは軽い気持ちで防空壕の入口付近にたむろして空を眺めていました。やがて地上砲火の音が聞こえて間もなく、「ざあ−」という空気を引き裂くような音と同時に、地鳴りを伴った爆発音が身近にせまってきたのであわてて境内に転げ込みました。そして隅のなるべく暗いところに肩を寄せ合い息をひそめていました。執拗にくり返される波状攻撃に極度の緊張状態が続きました。この間約2時間近く退避していたようですが私には数10分程にしか感じられませんでした。異常緊張のせいでしょうか、それとも爆弾破裂でできた摺鉢 状の穴が私たちの壕に、まさにかからんとしていたので、その時のショックで一時気絶していたのでしょうか。警報解除になって壕を出てからも放心状態が当分続いていたようです。まわりわ建物はあとかたもなく吹き飛ばされ、一面土砂と瓦礫、その間に点々と死体が転がっていたようですが、その中をどのようにして寮まで帰ったのかわかりませんでした。この空襲で下級生10名が直撃弾をうけて非業の死を遂げられたことはなんとしても悼ましい限りでした。暗い寮の一室で悲しい通夜を過ごしたときの情景は今も強く心に焼き付いています。工場は壊滅状態になり、以後約1ケ月間後片付けの作業が続きました。この期間中もっとも悩まされたのが南京虫の夜襲でした。昼間は襖や壁のわずかなすき間に身をひそめ、夜出てきては肌をかみ、さっと逃げてしまう。その逃げ足の速いのには閉口したものでした。皮膚の弱い者はかみ跡が悪化してかなり苦しんでいたようです。

 後片付けもほほ終わったところで、引き続き雑餉隈の九州飛行機製作所に転属になり、翌20年の3月まで飛行機の部品づくりに従事しました。ハンマー打ち、やすりかけなど基本の型を一通り実習した後、私は工作機械のセーバーに配属されました。熟練工の手ほどきを受けながら油にまみれての毎日でした。特に靴底のゴムが油でいたむため下駄をはいての作業でした。巻脚絆に下駄ばきの姿はなんともこっけいではなかったかと思います。高温の削り屑が転げ落ちて足の指にはまり、よく火傷をしました。こうして苦労して仕上げた部品も、ものになったのは少なかったようで、不合格品として処理されるのを見る度に申し訳ない気持ちがしたものでした。

 この頃には本土空襲も一段と激しさを増し、毎日のように警報がかかりました。その都度、工場から出て山手の方に退避するのですが、私たちの行動は実に見事なものでした。他校生がのんびり集合している間に決められた場所にさっと集合し、隊列を組んで一気にかけ出したものでした。大村で体験した死の恐怖が体の深部までしみ込んでいたためでしょうか。

 一方寮生活では食樺事情も悪化し、戦前、牛馬の飼料になっていた大豆かす入りの飯が出るようになり、量も少なくて空腹を満たすことができませんでした。やがて時々、家から送ってくる食料品の小包に群がるようになり、その状況はまさに餓鬼道に落ちた感がありました。また、しらみにも悩まされました。かまれたときはわからないが風呂にはいるとかゆくなり始末におえないものでした。南京虫とは対照的に動きが遅く、つぷしやすいのですが増えるのが速く、退治はお手上げ状態でした。

 2月頃になってB29に対抗できる新型の試作機が完成し、試験飛行が行なわれるとのうわさが流れました。しかし、ついにその姿を見ることなく3月になってしまいました。そして、この工場の青年学枚講堂で形ばかりの卒葉式を終えました。私は次の学校の指示があるまで待機することになり、約5ケ月振りに家に帰りました。やせ細った姿を見て親たちもぴっくりしたようでした。以後学校からの指示を自宅で待ち、8月15日になって新動員地に向かいました。その途中で終戦を知りましたが、その時はもうこれで空襲におびえなくてすむのだという安堵感と同時に、これから日本はどうなるだろうかといった不安感が交錯して茫然自失の状態でした。

 思えば、もっとも多感な時期に充分な勉強ができなかったことは、まことに不幸なことではありましたが、この激動の時代を身をもって体験したことは無駄ではなかったように思います、あれから50年の歳月を経た今、往時を振り返り改めて平和の尊さをかみしめ、これからの人生を大切に過ごさなければならないとの決意を新にしている次第です。

 以前、本校で化学を教えておられた藤本先生の手記です。平和な時代に生きる私たちには想像すらできないことばかりですが、似たような状況にある地域や国が今でも世界のあちこちに・・・。


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